Re: ハルノート(「もしも〜」)
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/01/09 23:02 投稿番号: [3266 / 7270]
>ハルノートでは中国から手を引けとは言っているけれども満州は明言されていないこと。
>いつまでにっていう期限もないザル法みたいなものだったってこと。
>少なくとも日本側が自ら中国には満州も含むと解釈する必要はなかった。
>もうちょっとずるく立ち回って、いったんハルノートを飲んだふりして、催促されたらテキトーに小出しにしてのらりくらりかわすということもできたんじゃないかなあと。
>で、日本人は律儀でまじめ、外交オンチということが言いたかったんですよ。
①「ハル・ノート」は原則的概略的な要求が書かれているだけで、撤兵時期の実施期限や「満州国」の扱いなど具体的、不明な点はその後の外交交渉で決定されるのが外交常識です。
②「ハル・ノート」を受諾して、後は適当にやっていればよかったというのは、石油を停止されている日本にとっては不可能でした。
この場合、その後の具体的交渉や撤兵実施に不誠実であれば、日本の軍事と産業は停止状態となります。
アメリカは、日本側の対日石油禁輸解除について先履行の提案を拒否しているからです。
したがって、外交オンチとの批判はあたらないと思います。
『昭和16年4月16日日米交渉始まる。米国、「ハル4原則」を表明。
6月25日政府大本営連絡会議、南部仏印進駐を決定。
7月25日米国、在米日本資産を凍結。
7月28日日本軍、南部仏印に進駐開始。
8月1日米国、対日石油輸出全面禁止。
9月4日米国、日本の日米巨頭会談の提案を拒否。
11月5日野村大使を助けるため来栖三郎特命全権大使を米国に派遣。
日本は甲案(①日支間に平和成立すれば在支日本軍は2年以内に全面撤兵。②支那事変が解決すれば在仏印の日本軍も撤兵。③通商無差別待遇が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那でもこれを認める。④日独伊三国同盟への干渉は認めない)と、
さらに具体的な乙案(蘭印での物資獲得が保障され、米が資金凍結を解除し石油の対日供給を約束すれば南部仏印から撤退、さらに支那事変が解決すれば仏印全土から撤退)を示した。
11月26日ハル国務長官、日本の乙案も拒否し、「ハル・ノート」を提示。
「ハル・ノート」は、当初の「ハル4原則」と基本的には何も変わっておらず、ハル長官は最後まで強硬でまったく譲歩しなかった。
支那・仏印からの無条件撤兵と、支那での重慶政権以外の政府・政権の否定(満州国を含むかについては両論がある)、さらに三国同盟の死文化を要求するもの。満州事変以来の日本の大陸政策を全面否定する明らかな最後通告だった。
その翌朝、ハル長官はスチムソン陸軍長官に、「私は日米交渉から足を洗った。いまやこの問題はあなたとノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」(「ルーズベルト大統領と1941年戦争の到来」防衛研修所)と語ったという。』
>いつまでにっていう期限もないザル法みたいなものだったってこと。
>少なくとも日本側が自ら中国には満州も含むと解釈する必要はなかった。
>もうちょっとずるく立ち回って、いったんハルノートを飲んだふりして、催促されたらテキトーに小出しにしてのらりくらりかわすということもできたんじゃないかなあと。
>で、日本人は律儀でまじめ、外交オンチということが言いたかったんですよ。
①「ハル・ノート」は原則的概略的な要求が書かれているだけで、撤兵時期の実施期限や「満州国」の扱いなど具体的、不明な点はその後の外交交渉で決定されるのが外交常識です。
②「ハル・ノート」を受諾して、後は適当にやっていればよかったというのは、石油を停止されている日本にとっては不可能でした。
この場合、その後の具体的交渉や撤兵実施に不誠実であれば、日本の軍事と産業は停止状態となります。
アメリカは、日本側の対日石油禁輸解除について先履行の提案を拒否しているからです。
したがって、外交オンチとの批判はあたらないと思います。
『昭和16年4月16日日米交渉始まる。米国、「ハル4原則」を表明。
6月25日政府大本営連絡会議、南部仏印進駐を決定。
7月25日米国、在米日本資産を凍結。
7月28日日本軍、南部仏印に進駐開始。
8月1日米国、対日石油輸出全面禁止。
9月4日米国、日本の日米巨頭会談の提案を拒否。
11月5日野村大使を助けるため来栖三郎特命全権大使を米国に派遣。
日本は甲案(①日支間に平和成立すれば在支日本軍は2年以内に全面撤兵。②支那事変が解決すれば在仏印の日本軍も撤兵。③通商無差別待遇が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那でもこれを認める。④日独伊三国同盟への干渉は認めない)と、
さらに具体的な乙案(蘭印での物資獲得が保障され、米が資金凍結を解除し石油の対日供給を約束すれば南部仏印から撤退、さらに支那事変が解決すれば仏印全土から撤退)を示した。
11月26日ハル国務長官、日本の乙案も拒否し、「ハル・ノート」を提示。
「ハル・ノート」は、当初の「ハル4原則」と基本的には何も変わっておらず、ハル長官は最後まで強硬でまったく譲歩しなかった。
支那・仏印からの無条件撤兵と、支那での重慶政権以外の政府・政権の否定(満州国を含むかについては両論がある)、さらに三国同盟の死文化を要求するもの。満州事変以来の日本の大陸政策を全面否定する明らかな最後通告だった。
その翌朝、ハル長官はスチムソン陸軍長官に、「私は日米交渉から足を洗った。いまやこの問題はあなたとノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」(「ルーズベルト大統領と1941年戦争の到来」防衛研修所)と語ったという。』
これは メッセージ 3264 (tydkemvo さん)への返信です.
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