Re: 韓国人たちの反日感情の起源
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/10/08 15:06 投稿番号: [2984 / 7270]
量産型雑魚のpyeongyang_kimは、「軽視論」「女性」「現代」トピに出没しては、適当なことを書いて一切返答しない人でありますから、以下ROM専の人のために書いておきます。
秀吉の朝鮮出兵について、読みやすいサイトを紹介しておきます。
http://nikujiru.tripod.com/rekisi1.htm#karairi/index.html
ここからピックアップして、反論を書いておきましょう。
>しかし壬辰の乱でプングシンスギルの侵略を受けて 7年間国土が染躪になって多くの人々が死んでけがをして日本で拉致されてその時から日本が嫌いになったようです.
景福宮は加藤清正がソウルに入る二日前に焼け落ちた。
景福宮はその時代の前の王が農民や職人にただ働きをさせて作った。この人たちは60歳まで奴隷で自由がなかった。そういう状況があったので、秀吉軍が入ってきた時、奴隷たちが奴隷の名簿(戸籍)をまず襲撃した。地方も同じです。隷属民はまずそこを襲いました。これを焼き払うと自由になれるからです。身分からの解放です。
個人に属する奴隷の方がもっと厳しかった。牛一頭と同じ価値だった。6年に1回戸籍が作られ農民文書が作られた。人頭税のための文書ですが、牛馬の最後に奴隷の名前が書かれた。この人たちが自由を求めた。16世紀には身分の解放を求めて民乱が起こった。彼らがまず王宮を襲い、これに日本軍が乗じたのです。
李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』等には、その時の状況が記録されている。
朝鮮半島南東部
慶尚道は日本軍の侵入をもっとも早く受けた地域である。
『陝川、草渓、固城、普州などでは、賊(蜂起)が発生し、彼らは昼間から政府の倉庫を襲撃し、穀物を奪った。これは逃亡した兵卒が、盗賊となった』
政府はこのような慶尚道の動きを、『固城県令の金絢は赴任して7年になり、刑罰が大変過酷で人々の支持を失った。そこへ日本軍が侵入したので、反乱(蜂起)が四方に起こった』と、日ごろの悪政のためとしている。
朝鮮半島北部
咸鏡道の民衆蜂起は、他地方と異なりもっと積極的な目標をもっていた。日本軍の侵入が1592年6月に始まると、『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したとある。さらに、人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまう。
朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。事実、平壌の役の際、明軍は「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。そして、この時も倭寇と同様、「仮倭」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『黔澗集』は伝え、金誠一も「処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし」と「鶴峯集」で述べている。
>そして過ぎ去った事を清算しようと虜送還を要求するが日本は口先だけ送還を約束して灰どおり履行しない. ここに朝鮮はもっと反日感情を堅固に持つようになる.
1636年の朝鮮通信使が帰国の途中、通訳官康遇聖は捕虜となった同胞の刷還(調査して連れ帰る)に関する諭告(お触れ)をもって唐津に行ったが、帰国希望を申し出る者はなく、全員が腰を据えて製陶に励んでいたという。
朝鮮時代の製造の現場では、平素から奴隷的な労働が行われ、失策には罰則が規定されていたこととも無関ではない。『続大典』で「咨文の表紙麁造の匠人、初次杖八十、毎次一十を加え、杖一百に至りて止む」と規定しているのはその一例で、技術の未熟な匠人たちには体罰が加えられたのである。これでは逃亡する匠人が続出し、各官衙の匠人が不足がちになるのも当たり前である。
秀吉の朝鮮出兵について、読みやすいサイトを紹介しておきます。
http://nikujiru.tripod.com/rekisi1.htm#karairi/index.html
ここからピックアップして、反論を書いておきましょう。
>しかし壬辰の乱でプングシンスギルの侵略を受けて 7年間国土が染躪になって多くの人々が死んでけがをして日本で拉致されてその時から日本が嫌いになったようです.
景福宮は加藤清正がソウルに入る二日前に焼け落ちた。
景福宮はその時代の前の王が農民や職人にただ働きをさせて作った。この人たちは60歳まで奴隷で自由がなかった。そういう状況があったので、秀吉軍が入ってきた時、奴隷たちが奴隷の名簿(戸籍)をまず襲撃した。地方も同じです。隷属民はまずそこを襲いました。これを焼き払うと自由になれるからです。身分からの解放です。
個人に属する奴隷の方がもっと厳しかった。牛一頭と同じ価値だった。6年に1回戸籍が作られ農民文書が作られた。人頭税のための文書ですが、牛馬の最後に奴隷の名前が書かれた。この人たちが自由を求めた。16世紀には身分の解放を求めて民乱が起こった。彼らがまず王宮を襲い、これに日本軍が乗じたのです。
李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』等には、その時の状況が記録されている。
朝鮮半島南東部
慶尚道は日本軍の侵入をもっとも早く受けた地域である。
『陝川、草渓、固城、普州などでは、賊(蜂起)が発生し、彼らは昼間から政府の倉庫を襲撃し、穀物を奪った。これは逃亡した兵卒が、盗賊となった』
政府はこのような慶尚道の動きを、『固城県令の金絢は赴任して7年になり、刑罰が大変過酷で人々の支持を失った。そこへ日本軍が侵入したので、反乱(蜂起)が四方に起こった』と、日ごろの悪政のためとしている。
朝鮮半島北部
咸鏡道の民衆蜂起は、他地方と異なりもっと積極的な目標をもっていた。日本軍の侵入が1592年6月に始まると、『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したとある。さらに、人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまう。
朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。事実、平壌の役の際、明軍は「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。そして、この時も倭寇と同様、「仮倭」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『黔澗集』は伝え、金誠一も「処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし」と「鶴峯集」で述べている。
>そして過ぎ去った事を清算しようと虜送還を要求するが日本は口先だけ送還を約束して灰どおり履行しない. ここに朝鮮はもっと反日感情を堅固に持つようになる.
1636年の朝鮮通信使が帰国の途中、通訳官康遇聖は捕虜となった同胞の刷還(調査して連れ帰る)に関する諭告(お触れ)をもって唐津に行ったが、帰国希望を申し出る者はなく、全員が腰を据えて製陶に励んでいたという。
朝鮮時代の製造の現場では、平素から奴隷的な労働が行われ、失策には罰則が規定されていたこととも無関ではない。『続大典』で「咨文の表紙麁造の匠人、初次杖八十、毎次一十を加え、杖一百に至りて止む」と規定しているのはその一例で、技術の未熟な匠人たちには体罰が加えられたのである。これでは逃亡する匠人が続出し、各官衙の匠人が不足がちになるのも当たり前である。
これは メッセージ 2982 (pyeongyang_kim さん)への返信です.
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