いつも
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2003/08/28 02:16 投稿番号: [276 / 7270]
資料を提示して頂きありがとうございます。
そのHP、面白そうなところが満載で(こことか↓)・・う〜ん、憧れの暮し『引き篭り』(笑)
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-79.htm
>読了後,触りだけでも紹介頂けたら有り難いです
遅読な上、普段読み慣れない文章で・・と言うより、生い立ちなどの部分は結構面白いんですが、
個人の闘争史部分には興味が沸かない・・(それにしても、生真面目というか愚直というか、気の毒になりました。)
結婚してぶち当たった嫁姑問題を民主主義で解決しようと思ったのが、
ボタンの掛け違いの始りかも・・(家庭の「民主化」だそうです)。
先の私の投稿での
>家永三郎の学生だった年代を考えると、何かブルジョアの「負い目」が在ったかも知れません。
↑これですが、軍の縮小のため父親の恩給で一家が暮していたそうで、
大正の好景気時代は物価が上がって(恩給額は上がらない)相当苦しく
(子供2人に仕送り+病人も抱えていた・・うわ〜、きつそう)、
逆に大恐慌の頃の方が安定していた(恩給、下がらず)。
ちょっと、意外でしたが、高度成長期の公務員の給料を考えると(民間の1/2以下?)
軍人も公務員だったんだしなあ〜と考えてしまいました(笑)
よって、金持ちの「負い目」はなさそうです。
本のなかに「天皇制イデオロギー」という言葉がくり返し出てきます。
そんなに気にしなくてもいいじゃないの家永さんって感じです。
少し長いですが、結びのあたりを引きます。
(打ちっぱなしなので読みにくいでしょうがご勘弁下さい)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
〜略〜私が逆コースの進行を見てようやく社会情勢に危機感を覚え、日本国憲法の理念を理解してこれを擁護しなければならぬと考えるようになり、積極的な社会的発言を開始した〜(略)敗戦直後の言論界の豹変に反撥するあまり客観情勢の認識において混迷に陥っていた私に立ち直りの機会を与えてくれたのは、「逆コース」という反面教師であった。(略)憲法を学んでいくなかで、新憲法の天皇条項の画期的意義がはじめてわかってきたのであった。(略)マルクス主義者ら反体制運動からの反天皇制の主張には反撥を感じてもそれに動かされることのなかった私は、これら法律学者の天皇論によって自分の天皇観を根本的に改める必要を感じるにいたったのである。
―略―上に引用した拙著「新日本史」の記述に示されているとおり、降伏後しばらくの間、私は天皇の「御聖断」によって戦争が終結したとの認識からぬけだせなかったのであるが、その後日本の降伏にいたる歴史的経過と天皇の戦争へのかかわりについて多くを学び知るようになってからも、天皇制批判を差し控えてきたのと同じ理由によって、天皇個人の戦争責任を問うことは意識的にさし控えてきた。
しかしながら、1975年10月31日におこなわれた天皇と日本記者クラブとの会談のテレビ放送を視聴し、「陛下は、いわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、お伺い致します」という質問に対し、天皇が「そういう言葉のアヤについては、(略)お答えができかねます」と答えるのを耳にし、もはや沈黙しているのに耐えられなくなり、(略)〜間接的な形で天皇の戦争責任を問うたのであるが、さらに1985年公刊の『戦争責任』のなかで、はじめて正面から天皇の戦争責任を追及したのである。
因みに、1988年刊行の『国史大辞典9』所蔵の「天皇」の項は天皇制の歴史を私の最新の視点から概説したものであることを付記しておく。(略)編集委員会では、時代別に複数の執筆者に分担してもらうという案もあったけれど、結局私一人に全体を書いてもらうことになったのであるという。何故私が執筆者として選ばれたのかはわからない。
(1990年)
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>何故私が執筆者として選ばれたのかはわからない。
たぶん、本当にわからなかったかもしれませんが(ホント世間に疎そうだ・・)
他の執筆者に全部断られたのでは・・
ややこしい問題が起きがちな部分だし(右翼左翼・その他色々)
そのHP、面白そうなところが満載で(こことか↓)・・う〜ん、憧れの暮し『引き篭り』(笑)
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-79.htm
>読了後,触りだけでも紹介頂けたら有り難いです
遅読な上、普段読み慣れない文章で・・と言うより、生い立ちなどの部分は結構面白いんですが、
個人の闘争史部分には興味が沸かない・・(それにしても、生真面目というか愚直というか、気の毒になりました。)
結婚してぶち当たった嫁姑問題を民主主義で解決しようと思ったのが、
ボタンの掛け違いの始りかも・・(家庭の「民主化」だそうです)。
先の私の投稿での
>家永三郎の学生だった年代を考えると、何かブルジョアの「負い目」が在ったかも知れません。
↑これですが、軍の縮小のため父親の恩給で一家が暮していたそうで、
大正の好景気時代は物価が上がって(恩給額は上がらない)相当苦しく
(子供2人に仕送り+病人も抱えていた・・うわ〜、きつそう)、
逆に大恐慌の頃の方が安定していた(恩給、下がらず)。
ちょっと、意外でしたが、高度成長期の公務員の給料を考えると(民間の1/2以下?)
軍人も公務員だったんだしなあ〜と考えてしまいました(笑)
よって、金持ちの「負い目」はなさそうです。
本のなかに「天皇制イデオロギー」という言葉がくり返し出てきます。
そんなに気にしなくてもいいじゃないの家永さんって感じです。
少し長いですが、結びのあたりを引きます。
(打ちっぱなしなので読みにくいでしょうがご勘弁下さい)
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〜略〜私が逆コースの進行を見てようやく社会情勢に危機感を覚え、日本国憲法の理念を理解してこれを擁護しなければならぬと考えるようになり、積極的な社会的発言を開始した〜(略)敗戦直後の言論界の豹変に反撥するあまり客観情勢の認識において混迷に陥っていた私に立ち直りの機会を与えてくれたのは、「逆コース」という反面教師であった。(略)憲法を学んでいくなかで、新憲法の天皇条項の画期的意義がはじめてわかってきたのであった。(略)マルクス主義者ら反体制運動からの反天皇制の主張には反撥を感じてもそれに動かされることのなかった私は、これら法律学者の天皇論によって自分の天皇観を根本的に改める必要を感じるにいたったのである。
―略―上に引用した拙著「新日本史」の記述に示されているとおり、降伏後しばらくの間、私は天皇の「御聖断」によって戦争が終結したとの認識からぬけだせなかったのであるが、その後日本の降伏にいたる歴史的経過と天皇の戦争へのかかわりについて多くを学び知るようになってからも、天皇制批判を差し控えてきたのと同じ理由によって、天皇個人の戦争責任を問うことは意識的にさし控えてきた。
しかしながら、1975年10月31日におこなわれた天皇と日本記者クラブとの会談のテレビ放送を視聴し、「陛下は、いわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、お伺い致します」という質問に対し、天皇が「そういう言葉のアヤについては、(略)お答えができかねます」と答えるのを耳にし、もはや沈黙しているのに耐えられなくなり、(略)〜間接的な形で天皇の戦争責任を問うたのであるが、さらに1985年公刊の『戦争責任』のなかで、はじめて正面から天皇の戦争責任を追及したのである。
因みに、1988年刊行の『国史大辞典9』所蔵の「天皇」の項は天皇制の歴史を私の最新の視点から概説したものであることを付記しておく。(略)編集委員会では、時代別に複数の執筆者に分担してもらうという案もあったけれど、結局私一人に全体を書いてもらうことになったのであるという。何故私が執筆者として選ばれたのかはわからない。
(1990年)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>何故私が執筆者として選ばれたのかはわからない。
たぶん、本当にわからなかったかもしれませんが(ホント世間に疎そうだ・・)
他の執筆者に全部断られたのでは・・
ややこしい問題が起きがちな部分だし(右翼左翼・その他色々)
これは メッセージ 270 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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