朝鮮最後の「君が代」
投稿者: honto_gou 投稿日時: 2004/11/29 19:07 投稿番号: [1851 / 7270]
朝鮮最後の「君が代」
こんな話もあります。終戦直後、侵入してきたソ連軍から避難する日本人が咸鏡北道の城津駅に集まっていた時、一人の朝鮮人青年がホームにかけ上がってきて、余り達者でない日本語で「日本人の皆さん、君が代を歌いましょう。皆さんは日本人です。何も恐れることはありません。私に続けて歌ってください」と大声で叫んだ。最初は気がねしていた避難民たちも、青年の熱気に圧倒され老若男女が声を合わせて、鳴咽も交えての君が代の大合唱になった。合唱が終わる頃、北朝鮮の保安隊員がかけつけ、「銃殺だ」と言って青年を逮捕した。「殺すなら殺せ。我々はいままで日本人として生きて来たのではないか。何が悪いのだ」とその青年は平然と抗議したが、両手をねじ上げられて連行され、街角に消えて行ったそうです。これは、戦前、京城女子師範を出て終戦まで北鮮に居られた片山千恵(本名・綾子)さんという方が「一七キロの国境」という回想録に書かれている実話ですが、恐らくこれが朝鮮最後の「君が代」になったことでしょう。
あるいは、B・C級戦犯として処刑されていった朝鮮出身の元日本兵の遺書を見ても、日本への恨みの言葉が全くないのに驚かされます。中には「故国日本と朝鮮の弥栄を祈る」と書き残し、最後に「暁に祈る」や「君が代」「海行かば」を斉唱して、刑場の露と消えた何人かの朝鮮出身兵もいるのです。
要するに、これが朝鮮統治三十五年の終焉の姿であったと言えます。ここには「強制」とか「擬制」だけでは説明できない人間の『真実」があるのではないでしょうか。同生共死の運命共同体意識と言ってもいい。内鮮一体はそこまで深まっていたわけです。いわば、日韓両国民の心の面での「清算」は済んでいるのです。それなのに今頃になって「加害者」だの「被害者」だの、やれ「償い」だのと言い立てるのは、何とも卑しく、さもしい限りと言わざるを得ません。
たしかに、構造的な差別はあったと思います。日本は強者として朝鮮を併合したのですから、これは仕方がなかったと思います。しかし、日本はその差別を放置したり、さらにひどいものにしようとしたかというと、決してそうではない。たえずその差別をなくし、欧米流の植民地政治を乗り越えようとしてきた──これが日本による統治の本質であった。私はこう思います。
わが国の朝鮮統治に善意の押しつけという一面があったことは否めないでしょう。それを「善意の悪政」と呼んだのは京城帝国大学教授だった鈴木武雄氏が最初だと思いますが、その鈴木教授でさえ、そのような独善や未熟から来る失敗を別にすれば、日本の朝鮮統治は「世界植民史上類例を見ないもので、人類として何等愧ずべきことではないと信ずる」とまで断言しています。
こうした胛価を、今の韓国の人が受け入れるとは思いませんし、また日本を恨むのは彼らの自由かもしれません。しかし、われわれが謝らねばならない理由もまたないということなのです。
日本人は朝鮮から米を収奪し、日本語を強制し、朝鮮人を奴隷のように扱い、酷使した──というのは朝鮮統治の虚像でしかなく、決して真実の姿ではない、と私は思うのです。
http://devs.data-room.info/cgi-perl/bunken/serv.cgi?CHOICE=PAGE&ID=40004101100100600000000000006200
・・・
こんな話は韓国の教科書には(日本の教科書にも)載らないと思いますが、もしこのような話がお互いの教科書の片隅にでも載せられる日が来れば
>「加害者」だの「被害者」だの、やれ「償い」だのと言い立てるのは、何とも卑しく、さもしい限りと言わざるを得ません。
なんて話は無くなっているかもしれませんね。
「韓国併合」とは何だったのか
http://devs.data-room.info/cgi-perl/bunken/serv.cgi?CHOICE=D&ID=400041011001
こんな話もあります。終戦直後、侵入してきたソ連軍から避難する日本人が咸鏡北道の城津駅に集まっていた時、一人の朝鮮人青年がホームにかけ上がってきて、余り達者でない日本語で「日本人の皆さん、君が代を歌いましょう。皆さんは日本人です。何も恐れることはありません。私に続けて歌ってください」と大声で叫んだ。最初は気がねしていた避難民たちも、青年の熱気に圧倒され老若男女が声を合わせて、鳴咽も交えての君が代の大合唱になった。合唱が終わる頃、北朝鮮の保安隊員がかけつけ、「銃殺だ」と言って青年を逮捕した。「殺すなら殺せ。我々はいままで日本人として生きて来たのではないか。何が悪いのだ」とその青年は平然と抗議したが、両手をねじ上げられて連行され、街角に消えて行ったそうです。これは、戦前、京城女子師範を出て終戦まで北鮮に居られた片山千恵(本名・綾子)さんという方が「一七キロの国境」という回想録に書かれている実話ですが、恐らくこれが朝鮮最後の「君が代」になったことでしょう。
あるいは、B・C級戦犯として処刑されていった朝鮮出身の元日本兵の遺書を見ても、日本への恨みの言葉が全くないのに驚かされます。中には「故国日本と朝鮮の弥栄を祈る」と書き残し、最後に「暁に祈る」や「君が代」「海行かば」を斉唱して、刑場の露と消えた何人かの朝鮮出身兵もいるのです。
要するに、これが朝鮮統治三十五年の終焉の姿であったと言えます。ここには「強制」とか「擬制」だけでは説明できない人間の『真実」があるのではないでしょうか。同生共死の運命共同体意識と言ってもいい。内鮮一体はそこまで深まっていたわけです。いわば、日韓両国民の心の面での「清算」は済んでいるのです。それなのに今頃になって「加害者」だの「被害者」だの、やれ「償い」だのと言い立てるのは、何とも卑しく、さもしい限りと言わざるを得ません。
たしかに、構造的な差別はあったと思います。日本は強者として朝鮮を併合したのですから、これは仕方がなかったと思います。しかし、日本はその差別を放置したり、さらにひどいものにしようとしたかというと、決してそうではない。たえずその差別をなくし、欧米流の植民地政治を乗り越えようとしてきた──これが日本による統治の本質であった。私はこう思います。
わが国の朝鮮統治に善意の押しつけという一面があったことは否めないでしょう。それを「善意の悪政」と呼んだのは京城帝国大学教授だった鈴木武雄氏が最初だと思いますが、その鈴木教授でさえ、そのような独善や未熟から来る失敗を別にすれば、日本の朝鮮統治は「世界植民史上類例を見ないもので、人類として何等愧ずべきことではないと信ずる」とまで断言しています。
こうした胛価を、今の韓国の人が受け入れるとは思いませんし、また日本を恨むのは彼らの自由かもしれません。しかし、われわれが謝らねばならない理由もまたないということなのです。
日本人は朝鮮から米を収奪し、日本語を強制し、朝鮮人を奴隷のように扱い、酷使した──というのは朝鮮統治の虚像でしかなく、決して真実の姿ではない、と私は思うのです。
http://devs.data-room.info/cgi-perl/bunken/serv.cgi?CHOICE=PAGE&ID=40004101100100600000000000006200
・・・
こんな話は韓国の教科書には(日本の教科書にも)載らないと思いますが、もしこのような話がお互いの教科書の片隅にでも載せられる日が来れば
>「加害者」だの「被害者」だの、やれ「償い」だのと言い立てるのは、何とも卑しく、さもしい限りと言わざるを得ません。
なんて話は無くなっているかもしれませんね。
「韓国併合」とは何だったのか
http://devs.data-room.info/cgi-perl/bunken/serv.cgi?CHOICE=D&ID=400041011001
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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