三・一運動論4
投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2004/07/09 18:47 投稿番号: [1422 / 7270]
うか。いずれにしても、朝鮮全土に亘って排日思想の■蔓して居る事は疑いもなき事実である。朝鮮に於ける少数の役人の強弁の外、今やなんびともこれを疑わない。而して、我国の当局者なり、又我が国の識者なりが、嘗てこの事実を現前の問題として、鮮人そのものの意見を参酌するの所置に出た事があるか。
鮮人動揺の現前の事実に対して、吾人の常識はとうていこれを従来の統治の失敗に帰するの外は無い。朝鮮統治に対する国民の一人としての不満は、予輩嘗て本誌上に於て少しくこれを述べた事がある。予輩のこれを述べた所以は、失政を曝露して当局を苦しめるつもりは無い。ただ頑ななる彼等に自己反省の必要を促し、以て朝鮮問題の真の解決を計らんとする微衷に出ずるに外ならなかった。けれども当局者は、嘗て自己の失政に反省の色を表わさない。或は云う。鮮人の統治には誤り無しと。或は云う、法規の命ずるところは洩らすところ無くこれを実行したと。或は云う、鮮人の発達の為に日々努力して怠る所が無いと。或は云う、彼等の今日物質的生活の幸福は遥かに併合以前に優ると。而して結論として曰く、かくして朝鮮人に日本の統治を不満に思う理由は無い。現に多数のものは総督府の恩沢を謳歌し、て止まないと。もしこれらの言を、時々起る排日的現象に対する責任回避の為に唱うるものならば、許し難い不都合としてこれを責めなければならない。もし又真に善意を以てかく信じて居るならば、彼等は異民族の心理にあまりに盲目にして、吾人は彼等に植民地統治の能力を疑わざるを得ない。而して我国民が、殊に国民中の識者と称する者が、かかる官吏の弁解を不問に附して怪まず、否、却って多くの場合に於て、彼らと同一の見解に立って朝鮮問題を論ずるものあるは、我々の甚だ意外とするところである。官吏の任務は、或は法規の命ずるところをなすを以て■るであろう。しかし国民の任務は、問題
を本当に解決するまで■らない。而して問題の本当の解決は、あく迄事実の真相の明瞭なる認識に根拠しなければならない。
自己反省を欠く結果は、いわゆる失政の非難を否認する。しかも反抗の事実ある以上、強いて原因を外に求めなければならない。ここに於て言う、朝鮮の暴動は第三者の扇動に因ると。而してその槍玉に上げらるるものは、外国基督教宣教師である。むろん事実問題としては、暴動と宣教師との関係を冷静に研究する必要あるは言うを■たない。したがって又責むべきものは、仮借するところなく責むるに何の妨げもない。けれども、自分に失態が無い、したがって憤る筈も無い、それでも憤るのは誰か第三者の扇動があるだろうと云う風な考え方は、第一に暴動の意義を軽視するの弊に陥り、第二に鎮定の方策を誤る。しかのみならず、そうでも無いものを他人の扇動に乗ったのだろうなどと云うところから、ますます反感を挑発する事にもなるし、又不当の嫌疑を掛くる結果として、その外国人の本国との友好を粉更するの惧が甚だ大である。独り朝鮮ばかりでは無い。支那でも西比利亜でも、ややもすれば某国の尻押だの某国の扇動だなどと云うので、最近どれだけ国交の妨害をなして居るか分らない。而してこれも、一部の当局者が自己の責任を免れる為、窮策として唱えて居る間はいい。国民全体がこれに付和雷同するに至っては以ての外の大事である。
*アメリカのブレスビテリアン(長老派)・メソディスト(監理派)宣教師のこと。彼らは運動に好意的であったが、直接には関係しなかった。小論「三・一運動と日本プロテスタント」(『思想』一九六八年一一月号)参照。
鮮人動揺の現前の事実に対して、吾人の常識はとうていこれを従来の統治の失敗に帰するの外は無い。朝鮮統治に対する国民の一人としての不満は、予輩嘗て本誌上に於て少しくこれを述べた事がある。予輩のこれを述べた所以は、失政を曝露して当局を苦しめるつもりは無い。ただ頑ななる彼等に自己反省の必要を促し、以て朝鮮問題の真の解決を計らんとする微衷に出ずるに外ならなかった。けれども当局者は、嘗て自己の失政に反省の色を表わさない。或は云う。鮮人の統治には誤り無しと。或は云う、法規の命ずるところは洩らすところ無くこれを実行したと。或は云う、鮮人の発達の為に日々努力して怠る所が無いと。或は云う、彼等の今日物質的生活の幸福は遥かに併合以前に優ると。而して結論として曰く、かくして朝鮮人に日本の統治を不満に思う理由は無い。現に多数のものは総督府の恩沢を謳歌し、て止まないと。もしこれらの言を、時々起る排日的現象に対する責任回避の為に唱うるものならば、許し難い不都合としてこれを責めなければならない。もし又真に善意を以てかく信じて居るならば、彼等は異民族の心理にあまりに盲目にして、吾人は彼等に植民地統治の能力を疑わざるを得ない。而して我国民が、殊に国民中の識者と称する者が、かかる官吏の弁解を不問に附して怪まず、否、却って多くの場合に於て、彼らと同一の見解に立って朝鮮問題を論ずるものあるは、我々の甚だ意外とするところである。官吏の任務は、或は法規の命ずるところをなすを以て■るであろう。しかし国民の任務は、問題
を本当に解決するまで■らない。而して問題の本当の解決は、あく迄事実の真相の明瞭なる認識に根拠しなければならない。
自己反省を欠く結果は、いわゆる失政の非難を否認する。しかも反抗の事実ある以上、強いて原因を外に求めなければならない。ここに於て言う、朝鮮の暴動は第三者の扇動に因ると。而してその槍玉に上げらるるものは、外国基督教宣教師である。むろん事実問題としては、暴動と宣教師との関係を冷静に研究する必要あるは言うを■たない。したがって又責むべきものは、仮借するところなく責むるに何の妨げもない。けれども、自分に失態が無い、したがって憤る筈も無い、それでも憤るのは誰か第三者の扇動があるだろうと云う風な考え方は、第一に暴動の意義を軽視するの弊に陥り、第二に鎮定の方策を誤る。しかのみならず、そうでも無いものを他人の扇動に乗ったのだろうなどと云うところから、ますます反感を挑発する事にもなるし、又不当の嫌疑を掛くる結果として、その外国人の本国との友好を粉更するの惧が甚だ大である。独り朝鮮ばかりでは無い。支那でも西比利亜でも、ややもすれば某国の尻押だの某国の扇動だなどと云うので、最近どれだけ国交の妨害をなして居るか分らない。而してこれも、一部の当局者が自己の責任を免れる為、窮策として唱えて居る間はいい。国民全体がこれに付和雷同するに至っては以ての外の大事である。
*アメリカのブレスビテリアン(長老派)・メソディスト(監理派)宣教師のこと。彼らは運動に好意的であったが、直接には関係しなかった。小論「三・一運動と日本プロテスタント」(『思想』一九六八年一一月号)参照。
これは メッセージ 1375 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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