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皇道派と統制派−2

投稿者: shinkuuboakagi00 投稿日時: 2004/05/06 16:41 投稿番号: [1087 / 7270]
相澤事件で永田が暗殺されてから、「統制派」の勢いが一時そがれたときに満州に飛ばされていますね。このときにおきた2.26事件で、満州、朝鮮の「皇道派」将校を一網打尽にしたことで、中央復帰、後の権力者の道が開けたようです.それまでは大して大物とはおもわれていなかったようですね。

統制派の一員とされる池田純久(後の中将)は、3月事件から5.15事件への流れの中で皇道派の策動を封じ、軍中央に組織的に革新計画を立てる必要から誕生したのが統制派であり、そのメンバーが、永田、東條、今村、武藤、富永、池田等であったとしています。

3月事件、十月事件、青年将校のように、宇垣や荒木、真崎を担いで、軍事政権を作るようなことは考えていなかった。政党政治は歓迎しないが、見識があり、人格高潔なら首相は誰でもよかった、というような考え方みたいです。

まあ、たしかに、統制派と呼ばれる実体は泣きにしもあらず、ですね。

東條は第一師団の連隊長から参謀本部に行っていますが、荒木の全盛の下では泣かず飛ばずだったようです。そのあとの林陸相のときに一時期息を吹き返しますが、相澤事件で陸相が代わって満州追放です。

>佐倉の連隊で中隊長の頃(たぶん大正6年より前)にも、皇道派、統制派はあったのでしょうか?

そういうことで、このころはまだ皇道派、統制派はなかったですね。

東條は、第一師団の連隊長のころは兵隊の評判はよかったようです。兵士が食べ物を残すと、まずいからだろう、もっとうまい物を兵士食わせろ、と命令したとか。

永田が生きていたら、永田より上に行くことは決してなかったでしょうから、永田の暗殺で無理に上におしだされた、ということでしょうか。

金品や財産に対しては潔癖すぎるほど潔癖だったのは事実みたいですね。贈り物はいちいち送りかえしていたとか、自分の家の修理をするときに、相手側が、東條閣下のところなら、と特別扱いするのをことわって、配給品が廻ってくるまで着工を許さなかったとか、色々エピソードがありますが、これは、おそらく、軍人としてのプライドだったんでしょうね。

>その頃の千葉の連隊(たぶん佐倉)では自室で(下士官クラスかな?)
マルクス読めたとか・・(発禁本ではなかった?)

大正デモクラシーと、大正軍縮のころだから結構自由だったのでしょう。

>でも普通選挙はやってたはず・・皇道派支持は少数派だった?)

軍部の中の派閥争いが選挙の争点になったことはなかったみたいですね。

2.26事件の後の日華事変、太平洋戦争が皇道派、統制派の争いを洗い流したような所があります。それ以前でも、将校の間で俺は統制派だ、皇道派だという争いは別になかったようですね。むしろ、そういうものに無関心派が9割をしめていたようです。

これも多分千葉県の砲兵学校の話だったとおもいますが、革新派将校達が下宿の1室に集って夜、論議をしていると、隣りの部屋でおそらく陸大か何かの勉強をしていた別の将校が、あの、勉強できないんで静かにしてくれませんか、などといったという話もあります。昭和8,9、10年ころの話だと思います。
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