皇道派と統制派-1
投稿者: shinkuuboakagi00 投稿日時: 2004/05/06 16:39 投稿番号: [1086 / 7270]
>東条は統制派だそうですが、何時頃からなのでしょう?
統制派というからには、それに対峙するもの(皇道派)が必要ですね。
この両派の区別も自民党の派閥みたいには截然としたものではなく、曖昧なものみたいです。
永田鉄山、東條が属するとされる統制派も明確なグループがあったわけではなく、この統制派、皇道派の語は、当時のマスコミがつけた他称の言葉のようです。が、一応のグループとしての特徴はあったようです。だから、マスコミもそのような名称をつけたのだとは思います(マスコミ・大衆のすきなラベリングです)。
統制派の歴史。
長州閥に牛耳られていた陸軍を、地域横断的、人材中心的な組織にしようとした運動から生まれたみたいです。
その端緒が、陸士の同期、当時少佐クラスであった永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次が大正10年にドイツのバーデン・バーデンで会合してこれをめざしたとされるものです(バーデン・バーデンの密約)。
これが元になった一夕会がその母体みたいですが、特に派閥的なものではなかったようです。この3人のうち永田は統制派とされますが、小畑は皇道派のシンパ、岡村は中立派とされています。
統制派は永田を中心とした陸大出の幕僚をたちで、軍部を効率的な組織にしようとするグループだったみたいです。
他方、皇道派の名称ですが、後の大将荒木貞夫が熊本の師団長時代に、さかんに「皇道」ということを口にし、「また皇軍」といことを言い出したので、彼らと、彼らの周りに集る若手の陸大出ではない隊付き将校らに付けられた名称らしいです。
これも他称の名称みたいです。荒木陸軍大臣に中央から追われた十月事件の首謀者達が、荒木等を揶揄するために使い始めたのがきっかけみたいで、これにマスコミ(新聞)が乗っかったみたいです。
10月事件の首謀者達は、荒木を革新運動への裏切り者と呼んで、非難のためにこの名称を使い始めたみたいです。
2.26事件に関与した青年将校(禁固刑)は、自分達のことを皇道派などと呼んだことはなかったといっています。
東條は荒木には組しなかったようですが、それがどういう理由か。人柄、思想に対して肌合いの違いを感じたからでしょうか。(これは結構大きな理由となると思います)。
これは メッセージ 1085 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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