Re:山鹿素行「中朝事実」
投稿者: tihaya3 投稿日時: 2001/03/01 05:32 投稿番号: [1533 / 35788]
yamabiko_ng さん、こん**は。
山鹿素行「中朝事実」の話というより、日本人の創造性の雑談の方に興味が行っている千早であります(笑)。
>しかしまあ、論点があまりにこんがらがって、どこから手をつけたら良いかサッパリわかりませんが(もう少しトピックの内容を具体的にすれば良かったのかも知れないと端から見ていた者には思えます)
そうなんですが、どうも難しいです。
規範という問題ですから、儒教の特徴とは、その中での朱子学の位置付け、日本と中国での受け取り方の違いなどを明確にして論じられたらいいのでしょうが、そこまで実力はありませんし。
それと下手をすると「定義の地獄」とでもいうドツボに入ってしまうのが怖いので(Aを定義すると、B,C,D,Eの言葉が出現し、Bを定義すると、1,2,3、の言葉が出現し、‥‥で無限大地獄に入ってしまう)、やめました。
理解とは単語でなく文脈でないと意味しないという文脈原理というものがあるそうですが、理解とは人間の解釈が入って初めて理解とか認識とかが出来るという共通認識がない場所では適用は難しいかもしれません。
よその国のことはどうでもいいのでしょうが、雑談交じりで。せっかく本来のトピに関係した話をしないといけないので。
日本とお隣の韓国と似たような文化もありますが、明らかに違っている面もあるようです。儒教関係で言うと、朝鮮民族は政治的原則やキリスト教や儒教など正典宗教的なものを重要視している雰囲気ですね。私たちはいいかげんで、原理原則より現実主義や自然信仰の立場でしょう。「根」という概念もよくわかりません。遡及法で大統領の犯罪を裁くのを容認しているのも、そこからきているのですかね。日本でいうと浄土真宗は、隣の犬にかまれたら、隣が悪いのでなく、犬が恐怖心を持つような態度を取った自分が悪いのだというような、なんでもかんでもすべて自分が悪いとしてしまう教えがあります(偉大な宗教人親鸞の教えはそれだけではないのですが)。現在の日本人の一部に見られる自虐的行動もきっとこの浄土真宗や石田心学の自省の教えの伝統からきているような気がします。
比較文化論というと、述べられた趣旨は私も賛成です。
比較する相互の民族の伝統や文化を、価値観を貼り付けないで相互評価することで、自らの伝統を再認識する善い方法だと私も思います。比較文化論と並べて、もう一つが歴史的に現在の価値観で過去を断罪評価するのでなく、自分たちの価値観や伝統がどこからきているのかを最認識するための歴史の勉強も有効だと私は考えています。
比較文化論アプローチはつい近代化=西欧的価値観で物事を見てしまい、なかなかうまくいきませんし、歴史を俯瞰するのでも、現在の結果がわかった状態から、それも遡及法的に現代の価値観から物事を断罪してしまいがちになるので、これも苦労しています。
>ぼくが江戸時代の思想史に興味を持つ理由は、戦国時代の体制の正統性を朱子学によって附与しようという無理が発端となる儒学者たちの多様性ゆえです。ここにぼくは日本人のオリジナリティ・創造性を見るのです。
そうですね。賛成です。明治の発展の理由は江戸にあり、決して暗黒でなかったと思います。問題もあり、その問題を克服するのにいまだに苦労しているのですけど、問題が江戸時代の規範からきているものが多いという認識が出てこない限り、日本社会の多くの矛盾は解決できないでしょう。例示すると、福沢諭吉ですが、彼の著作は矛盾が多い印象を受けます。封建主義は親のカタキなりといった福沢諭吉の規範は、江戸の伝統文化が作ったものであり、彼の自己矛盾はそう考えると、理解できるような気がします。
山鹿素行「中朝事実」の話というより、日本人の創造性の雑談の方に興味が行っている千早であります(笑)。
>しかしまあ、論点があまりにこんがらがって、どこから手をつけたら良いかサッパリわかりませんが(もう少しトピックの内容を具体的にすれば良かったのかも知れないと端から見ていた者には思えます)
そうなんですが、どうも難しいです。
規範という問題ですから、儒教の特徴とは、その中での朱子学の位置付け、日本と中国での受け取り方の違いなどを明確にして論じられたらいいのでしょうが、そこまで実力はありませんし。
それと下手をすると「定義の地獄」とでもいうドツボに入ってしまうのが怖いので(Aを定義すると、B,C,D,Eの言葉が出現し、Bを定義すると、1,2,3、の言葉が出現し、‥‥で無限大地獄に入ってしまう)、やめました。
理解とは単語でなく文脈でないと意味しないという文脈原理というものがあるそうですが、理解とは人間の解釈が入って初めて理解とか認識とかが出来るという共通認識がない場所では適用は難しいかもしれません。
よその国のことはどうでもいいのでしょうが、雑談交じりで。せっかく本来のトピに関係した話をしないといけないので。
日本とお隣の韓国と似たような文化もありますが、明らかに違っている面もあるようです。儒教関係で言うと、朝鮮民族は政治的原則やキリスト教や儒教など正典宗教的なものを重要視している雰囲気ですね。私たちはいいかげんで、原理原則より現実主義や自然信仰の立場でしょう。「根」という概念もよくわかりません。遡及法で大統領の犯罪を裁くのを容認しているのも、そこからきているのですかね。日本でいうと浄土真宗は、隣の犬にかまれたら、隣が悪いのでなく、犬が恐怖心を持つような態度を取った自分が悪いのだというような、なんでもかんでもすべて自分が悪いとしてしまう教えがあります(偉大な宗教人親鸞の教えはそれだけではないのですが)。現在の日本人の一部に見られる自虐的行動もきっとこの浄土真宗や石田心学の自省の教えの伝統からきているような気がします。
比較文化論というと、述べられた趣旨は私も賛成です。
比較する相互の民族の伝統や文化を、価値観を貼り付けないで相互評価することで、自らの伝統を再認識する善い方法だと私も思います。比較文化論と並べて、もう一つが歴史的に現在の価値観で過去を断罪評価するのでなく、自分たちの価値観や伝統がどこからきているのかを最認識するための歴史の勉強も有効だと私は考えています。
比較文化論アプローチはつい近代化=西欧的価値観で物事を見てしまい、なかなかうまくいきませんし、歴史を俯瞰するのでも、現在の結果がわかった状態から、それも遡及法的に現代の価値観から物事を断罪してしまいがちになるので、これも苦労しています。
>ぼくが江戸時代の思想史に興味を持つ理由は、戦国時代の体制の正統性を朱子学によって附与しようという無理が発端となる儒学者たちの多様性ゆえです。ここにぼくは日本人のオリジナリティ・創造性を見るのです。
そうですね。賛成です。明治の発展の理由は江戸にあり、決して暗黒でなかったと思います。問題もあり、その問題を克服するのにいまだに苦労しているのですけど、問題が江戸時代の規範からきているものが多いという認識が出てこない限り、日本社会の多くの矛盾は解決できないでしょう。例示すると、福沢諭吉ですが、彼の著作は矛盾が多い印象を受けます。封建主義は親のカタキなりといった福沢諭吉の規範は、江戸の伝統文化が作ったものであり、彼の自己矛盾はそう考えると、理解できるような気がします。
これは メッセージ 1527 (yamabiko_ng さん)への返信です.