> >>226事件について
投稿者: shinkuuboakagi 投稿日時: 2001/05/29 22:52 投稿番号: [6051 / 203793]
>つまり、景気が良くても、農村などにはその恩恵が行き届かなかったと。
昭和5年は豊作飢饉、6年、7年は凶作、8年は豊作飢饉、9年は凶作。凶作の原因は冷夏でしょう。ある年、侍従が天皇に今年の夏は涼しくて楽ですね、といったら、「この冷夏で東北の農民がまた凶作になるのではないかと心配しているのに、そのことを考えないのか」としかったという話があります。
昭和5年の小作争議件数2,478,参加人員58,565に対し、10年は6,824件、113、164人。昭和5,6年期は、今を除いて日本経済が唯一デフレになった期ですね。大正3年を100として、昭和4年6月が176,昭和6年6月が120(満田巌・昭和風雲録)。
当時の農村の生活を描いた写真を見ると本当にひどいものです。今からでは想像もつきません。
>ロシア?
天皇の言葉は、日本もロシア革命みたいに皇族、側近等をころす状況になったのか、という意味です。股肱の心(側近)を殺すのは、自分の首を真綿で締めるようなものだ、といった天皇の言葉があります。青年将校の立場からすれば、「思う人(天皇)には思われず」というところでしょう。
226に参加した兵士達が実際どうおもったかは、「226事件と郷土兵」(埼玉県刊行)、「226事件の兵隊」(恒文社)、「226事件と下士官兵」(新人物往来)、「226と下級兵士」(太平出版)。週間読売の昭和40年代初めの特集。これは残念ながら紛失。
参加者からとは別の視点から見たものは「無名の盾」(もりたなるお)。これは226事件の際の首相官邸襲撃でころされた警備の警察官をえがいたもの。機関銃に拳銃で抵抗。別の視点から忘れてはならない事実。
渋谷区立公会堂の横(NHKのすぐ近く)にある226事件慰霊の観音像の文には、「226事件で亡くなった総ての人の霊を慰める」とあります。
いわゆる「皇道派」が中国進出や中国との戦争を考えていなかったのは、北一輝が青春時代を中国で過ごしたことと関係があるかも。中国は辛亥革命に参加した北にとっては青春そのもの。
獄中で北は青年将校の一人にメモをわたし、こういったそうです。
「この事件の落着する前後から日本は大きな苦難の途を辿りはじめるであろう。」事実はその通りになりましあね。12年7月7日の蘆溝橋事件、大部分の青年将校の銃殺は7月12日。
対外政策については、皇道派といわれていた小畑敏四郎と統制派の永田鉄山の対立。小畑は日本の敵はソ連邦であり、対ソ防衛が第一義で、日支提携による平和の確立を唱えた。永田はまず武力をもってシナをたたき、そのうえで足元を固めてソ連に備えるという立場。中国に対する立場が全然ちがいます。ただし青年将校達に具体的にどのような外交策(内政策も)があったのかは明確ではありません。ある将校が満州事変以後の事を「皇道大陸に及び・・・」といっているくらいだけです。
226は失敗すべくして失敗した。なぜか。それは青年将校達自身に権力奪取の意図がなかったから。彼ら自身が権力を握ろうとしたのではない。悪く言えば、あとは野となれ山となれ的なところはあります。これがリビアのガダフィー大佐とちがくところでしょう。この点を上げる論者もいます。自分で権力を握ろうとしないクーデターなど成功するはずがない。あまりに杜撰
な計画。
刑法理論でいうと、結果よりも行為を重んじる「行為無価値論」にちかいかも。
青年日本の歌(昭和維新の歌)の最後にこういうのがあります。
巧妙なにか夢のあと
消えざるものはただ誠
人生意気にに感じては
正否をたれかあげつらう
これでは失敗する。
昭和5年は豊作飢饉、6年、7年は凶作、8年は豊作飢饉、9年は凶作。凶作の原因は冷夏でしょう。ある年、侍従が天皇に今年の夏は涼しくて楽ですね、といったら、「この冷夏で東北の農民がまた凶作になるのではないかと心配しているのに、そのことを考えないのか」としかったという話があります。
昭和5年の小作争議件数2,478,参加人員58,565に対し、10年は6,824件、113、164人。昭和5,6年期は、今を除いて日本経済が唯一デフレになった期ですね。大正3年を100として、昭和4年6月が176,昭和6年6月が120(満田巌・昭和風雲録)。
当時の農村の生活を描いた写真を見ると本当にひどいものです。今からでは想像もつきません。
>ロシア?
天皇の言葉は、日本もロシア革命みたいに皇族、側近等をころす状況になったのか、という意味です。股肱の心(側近)を殺すのは、自分の首を真綿で締めるようなものだ、といった天皇の言葉があります。青年将校の立場からすれば、「思う人(天皇)には思われず」というところでしょう。
226に参加した兵士達が実際どうおもったかは、「226事件と郷土兵」(埼玉県刊行)、「226事件の兵隊」(恒文社)、「226事件と下士官兵」(新人物往来)、「226と下級兵士」(太平出版)。週間読売の昭和40年代初めの特集。これは残念ながら紛失。
参加者からとは別の視点から見たものは「無名の盾」(もりたなるお)。これは226事件の際の首相官邸襲撃でころされた警備の警察官をえがいたもの。機関銃に拳銃で抵抗。別の視点から忘れてはならない事実。
渋谷区立公会堂の横(NHKのすぐ近く)にある226事件慰霊の観音像の文には、「226事件で亡くなった総ての人の霊を慰める」とあります。
いわゆる「皇道派」が中国進出や中国との戦争を考えていなかったのは、北一輝が青春時代を中国で過ごしたことと関係があるかも。中国は辛亥革命に参加した北にとっては青春そのもの。
獄中で北は青年将校の一人にメモをわたし、こういったそうです。
「この事件の落着する前後から日本は大きな苦難の途を辿りはじめるであろう。」事実はその通りになりましあね。12年7月7日の蘆溝橋事件、大部分の青年将校の銃殺は7月12日。
対外政策については、皇道派といわれていた小畑敏四郎と統制派の永田鉄山の対立。小畑は日本の敵はソ連邦であり、対ソ防衛が第一義で、日支提携による平和の確立を唱えた。永田はまず武力をもってシナをたたき、そのうえで足元を固めてソ連に備えるという立場。中国に対する立場が全然ちがいます。ただし青年将校達に具体的にどのような外交策(内政策も)があったのかは明確ではありません。ある将校が満州事変以後の事を「皇道大陸に及び・・・」といっているくらいだけです。
226は失敗すべくして失敗した。なぜか。それは青年将校達自身に権力奪取の意図がなかったから。彼ら自身が権力を握ろうとしたのではない。悪く言えば、あとは野となれ山となれ的なところはあります。これがリビアのガダフィー大佐とちがくところでしょう。この点を上げる論者もいます。自分で権力を握ろうとしないクーデターなど成功するはずがない。あまりに杜撰
な計画。
刑法理論でいうと、結果よりも行為を重んじる「行為無価値論」にちかいかも。
青年日本の歌(昭和維新の歌)の最後にこういうのがあります。
巧妙なにか夢のあと
消えざるものはただ誠
人生意気にに感じては
正否をたれかあげつらう
これでは失敗する。
これは メッセージ 6028 (saru_timbanco2000 さん)への返信です.
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