>>>対馬は日本ですが、何か?
投稿者: shuji5175 投稿日時: 2005/03/21 03:01 投稿番号: [176961 / 203793]
鎌倉時代以来の対馬国守護宗氏は戦国時代も生き残り、関ヶ原の合戦では西軍についたのに徳川につぶされなかった。
朝鮮との貿易も幕府に対朝鮮外交に協力することを条件に鎖国化でも追認された。
対馬藩は石高は二万石だが、朝鮮貿易を担うことから十万石格の待遇で国持ち大名である。しかも長崎街道の途中の肥前田代(いまの佐賀県鳥栖市)に9000石ほどの飛び地を領したほか、下野国にも飛び地の藩領がある。対馬の地勢が山がちで、耕作地が少ないことに対する配慮である。また肥前田代は長崎への出城であり、中継貿易で成り立つ対馬藩にとっては重要な拠点であった。
参勤交代は特例として三年に一度。江戸城では大広間詰め。従四位対馬守侍従を襲爵を許されている。
対馬藩は朝鮮の釜山に倭館という貿易事務所を構えていた。
1607年に徳川幕府と朝鮮との間で国交が回復すると、1609年に締結された己酉条約が締結された。
それによると、日朝間の通行者は徳川将軍と宗氏、朝鮮から官位を与えられた対馬島民に限定。
貿易船は年20隻。場所は富山浦(釜山)のみ。
倭館は当初、釜山豆毛浦に置かれていたが、1676年に利便性の高い釜山草梁に移転し、敷地も10万坪に拡充された。中には西に宿泊施設、東に館守棟、裁判所があり500人が常駐できた。
日本の使節は漢城(ソウル)入りを許されず、ソウルから外交官が釜山に赴き日本使節を接待した。
貿易は公貿易と私貿易が年6回行われたが、品目と数量に制限がない私貿易の比率が増えていった。
朝鮮から日本へは朝鮮人参、中国産生糸、虎の皮、筆、硯が輸出され。日本から朝鮮へは京都銀座の銀、住友の銅、蒔絵の硯箱が輸出された。
なお、キムチに使用される唐辛子やタバコ、かぼちゃなど中南米原産の作物は南蛮貿易で日本に渡来したものが対馬を経由して朝鮮に伝わったのである。
日本では朝鮮人参の需要が高く、対馬藩は江戸、大坂、京都の藩邸と一部の商人を通じてしか販売しなかった。きわめて希少な薬草であった。
なお朝鮮側は対馬の宗氏を文書などを見ると
「日本国対馬州大守平公」
などと記録している。「平公」というのは宗氏が桓武平氏の血統で、筑前宗像郡を名字の地として「宗」を名乗ったことを考えれば妥当な表現である。
幕末には対馬にロシア船がやってきて乱暴狼藉を働いたため、幕府は外国奉行として小栗忠順を派遣している。
むろん対馬藩も勤皇か佐幕かという幕末維新の動乱に巻き込まれている。
明治には版籍奉還で厳原藩に改められ、廃藩置県で伊万里県、唐津県などの曲折を経て長崎県に編入され現在にいたる。
現在では「平成の大合併」にあわせて、「対馬市」が誕生、対馬藩以来の「統一」を実現している。
韓国の馬山市議会の皆さん、そういうことだ。対馬は、東京が日本固有の領土であるように、当然日本固有の領土だ。
朝鮮との貿易も幕府に対朝鮮外交に協力することを条件に鎖国化でも追認された。
対馬藩は石高は二万石だが、朝鮮貿易を担うことから十万石格の待遇で国持ち大名である。しかも長崎街道の途中の肥前田代(いまの佐賀県鳥栖市)に9000石ほどの飛び地を領したほか、下野国にも飛び地の藩領がある。対馬の地勢が山がちで、耕作地が少ないことに対する配慮である。また肥前田代は長崎への出城であり、中継貿易で成り立つ対馬藩にとっては重要な拠点であった。
参勤交代は特例として三年に一度。江戸城では大広間詰め。従四位対馬守侍従を襲爵を許されている。
対馬藩は朝鮮の釜山に倭館という貿易事務所を構えていた。
1607年に徳川幕府と朝鮮との間で国交が回復すると、1609年に締結された己酉条約が締結された。
それによると、日朝間の通行者は徳川将軍と宗氏、朝鮮から官位を与えられた対馬島民に限定。
貿易船は年20隻。場所は富山浦(釜山)のみ。
倭館は当初、釜山豆毛浦に置かれていたが、1676年に利便性の高い釜山草梁に移転し、敷地も10万坪に拡充された。中には西に宿泊施設、東に館守棟、裁判所があり500人が常駐できた。
日本の使節は漢城(ソウル)入りを許されず、ソウルから外交官が釜山に赴き日本使節を接待した。
貿易は公貿易と私貿易が年6回行われたが、品目と数量に制限がない私貿易の比率が増えていった。
朝鮮から日本へは朝鮮人参、中国産生糸、虎の皮、筆、硯が輸出され。日本から朝鮮へは京都銀座の銀、住友の銅、蒔絵の硯箱が輸出された。
なお、キムチに使用される唐辛子やタバコ、かぼちゃなど中南米原産の作物は南蛮貿易で日本に渡来したものが対馬を経由して朝鮮に伝わったのである。
日本では朝鮮人参の需要が高く、対馬藩は江戸、大坂、京都の藩邸と一部の商人を通じてしか販売しなかった。きわめて希少な薬草であった。
なお朝鮮側は対馬の宗氏を文書などを見ると
「日本国対馬州大守平公」
などと記録している。「平公」というのは宗氏が桓武平氏の血統で、筑前宗像郡を名字の地として「宗」を名乗ったことを考えれば妥当な表現である。
幕末には対馬にロシア船がやってきて乱暴狼藉を働いたため、幕府は外国奉行として小栗忠順を派遣している。
むろん対馬藩も勤皇か佐幕かという幕末維新の動乱に巻き込まれている。
明治には版籍奉還で厳原藩に改められ、廃藩置県で伊万里県、唐津県などの曲折を経て長崎県に編入され現在にいたる。
現在では「平成の大合併」にあわせて、「対馬市」が誕生、対馬藩以来の「統一」を実現している。
韓国の馬山市議会の皆さん、そういうことだ。対馬は、東京が日本固有の領土であるように、当然日本固有の領土だ。
これは メッセージ 176958 (shuji5175 さん)への返信です.