鄭在貞『新しい韓国近現代史』
投稿者: bosintang 投稿日時: 2002/02/06 01:25 投稿番号: [748 / 3669]
森田芳夫さんのことですが、
>著書 朝鮮終戦の記録
これ、前から読みたいと思ってるんだけど、手に入らない。
>(朝鮮建国準備委員会を左派主導と認識)
もしかして、ここ↓を参考にしましたか?
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9704/paper/0407/tokuha.html
森田さんの認識か黒田さんの認識か、あいまいだね。
そもそも、その認識、間違ってますか?
韓国国立放送大学の歴史教科書には、
「国内で建国同盟を率いた呂運亨は、敗戦直前に日帝より行政権の一部を委譲され建国準備委員会を発足させた。…米軍は建国準備委員会を認めなかった。…建国準備委員会は、人民の総意を結集するために、朝鮮人民共和国を宣布した。…人共は、形式的には李承晩、副主席に呂運亨、国務総理に許憲を推戴したが、中心勢力は朝鮮共産党を再建した朴憲永、李康国などであった」(鄭在貞『新しい韓国近現代史』桐書房、1993)
となってますが。
>在日朝鮮人処遇の推移と現状
(強制連行は存在しないと主張)
これも↓を参考にしたんだと思うけど、
http://www1.jca.apc.org/aml/200009/19018.html
森田さんの主張ではなくて、西岡さんの主張でしょう? さらにいえば西岡さんの主張を歪曲しているように思う。
>この人総督府の教育関係に勤務されたのでしょうか
森田氏が総督府でどんな仕事をしていたかは知りませんが、戦後、外務省で日韓交渉の裏方、またソウルの日本大使館員として働き、退官後、韓国誠信女子大で日本語を講じ、『韓国人の日本語作文における誤用例』など、実証的・実用的な研究をされていたことは知っています。
>総督府は日本人主導による皇民化教育を押し進めたのですから、朝鮮人主導の書堂教育は不必要なのではないでしょうか
皇民化教育が押し進められたのは1937年以降でしょう。1920年ごろの書堂や夜学の話とは時期が違います。
>書堂の教育内容には介入しなかったのでしょうか
しました。
1918年の書堂規則では、開設が届け出制とされ、漢文素読だけでなく国語(日本語)、算術を教えることを指示し、書堂教科書として適当と認めるものを示しましたが、強制力はなく、書堂数は漸増、1918年に2万4294ヵ所。
しかし、1929年の改正書堂規則では、開設が認可制になり、国語(日本語)、朝鮮語、算術等の教科書は、総督府編纂のものを使用すべきことになりました。その後、書堂は衰微し、1936年には約6千にまで減りました(森田前掲書)。
>著書 朝鮮終戦の記録
これ、前から読みたいと思ってるんだけど、手に入らない。
>(朝鮮建国準備委員会を左派主導と認識)
もしかして、ここ↓を参考にしましたか?
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9704/paper/0407/tokuha.html
森田さんの認識か黒田さんの認識か、あいまいだね。
そもそも、その認識、間違ってますか?
韓国国立放送大学の歴史教科書には、
「国内で建国同盟を率いた呂運亨は、敗戦直前に日帝より行政権の一部を委譲され建国準備委員会を発足させた。…米軍は建国準備委員会を認めなかった。…建国準備委員会は、人民の総意を結集するために、朝鮮人民共和国を宣布した。…人共は、形式的には李承晩、副主席に呂運亨、国務総理に許憲を推戴したが、中心勢力は朝鮮共産党を再建した朴憲永、李康国などであった」(鄭在貞『新しい韓国近現代史』桐書房、1993)
となってますが。
>在日朝鮮人処遇の推移と現状
(強制連行は存在しないと主張)
これも↓を参考にしたんだと思うけど、
http://www1.jca.apc.org/aml/200009/19018.html
森田さんの主張ではなくて、西岡さんの主張でしょう? さらにいえば西岡さんの主張を歪曲しているように思う。
>この人総督府の教育関係に勤務されたのでしょうか
森田氏が総督府でどんな仕事をしていたかは知りませんが、戦後、外務省で日韓交渉の裏方、またソウルの日本大使館員として働き、退官後、韓国誠信女子大で日本語を講じ、『韓国人の日本語作文における誤用例』など、実証的・実用的な研究をされていたことは知っています。
>総督府は日本人主導による皇民化教育を押し進めたのですから、朝鮮人主導の書堂教育は不必要なのではないでしょうか
皇民化教育が押し進められたのは1937年以降でしょう。1920年ごろの書堂や夜学の話とは時期が違います。
>書堂の教育内容には介入しなかったのでしょうか
しました。
1918年の書堂規則では、開設が届け出制とされ、漢文素読だけでなく国語(日本語)、算術を教えることを指示し、書堂教科書として適当と認めるものを示しましたが、強制力はなく、書堂数は漸増、1918年に2万4294ヵ所。
しかし、1929年の改正書堂規則では、開設が認可制になり、国語(日本語)、朝鮮語、算術等の教科書は、総督府編纂のものを使用すべきことになりました。その後、書堂は衰微し、1936年には約6千にまで減りました(森田前掲書)。
これは メッセージ 727 (Kmechan さん)への返信です.
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