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藤原新也『丸亀日記』

投稿者: bosintang 投稿日時: 2002/01/13 17:39 投稿番号: [505 / 3669]
しまった、と思ったのは、イランのイスファハンを発ったあとだった。テヘランのホテルの部屋のロッカーに(ジャンバーを)置き去りにしたのだ。引き返すには、すでに遠すぎた。
ホテルに電話をかけた。受話器の向こうでフロントにぬーぼーと突っ立っている背の高い鷲鼻の男の、例の鼻にかかった声がとぎれとぎれに聞こえた。
「ジャンパーを忘れたんだが、真っ黒でゴワゴワしたバッファローみたいなやつだ」
意外な答えが返ってきた。
「ある」
「ない」というのが普通だ。いつもどこでもそうだった。タクシーの中。バスの荷台。駅のベンチ。ときには教会の礼拝堂。オールドデリーのホテルでチェックアウトして、ドアの外に出た直後に気づいたことがある。ルームボーイは卑屈な表情で「ない」と言った。まぁ、そんなところが相場だ。

「送料はすぐに送る。トウキョウに帰ったら、あんたがほしがっていたツーバンドのトランジスターラジオをプレゼントで送る」
プレミアをつけた。鷲鼻の男は鼻をならしながら、「カセットテープの入るソニーが欲しい」と言った。
「OK!」
と言いながら半分は彼の言葉を信用していなかった。彼もまた半分私の言葉を信用していないはずだ。ここでは、それが相場だ。
私は最後にクギを刺した。
「アッラーの神に誓おう……」
耳の遠くで
「……アッラー」
という声が聞こえた。それが、すべての終わりだ。……あれから十年が経つ。
放蕩息子バッファローはいまだに帰還しない。

藤原新也『丸亀日記』(朝日新聞社、1988)
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