未完の企画、朝鮮の独立
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2009/07/19 10:43 投稿番号: [3530 / 3669]
記事入力 : 2009/07/19 09:07:35
100年前の朝鮮の苦難
【新刊】岡本隆司著、カン・ジナ訳『未完の企画、朝鮮の独立』(笑臥堂)
1896年2月11日、光化門の外。興奮した群集が総理大臣・金弘集(キム・ホンジプ)を取り囲んだ。金弘集は「天命」だとして素直に身を任せ、群衆は金弘集を殴り殺した。高宗はこの日未明に王宮を抜け出してロシア公使館へ逃げ込み、金弘集を逆賊と規定した。95年10月に発生した明成皇后殺害事件の処理で、金弘集が微温的だったことに疑いを持ったのだ。
金弘集は1882年に米国・イギリス・ドイツと条約を結ぶ際、事実上朝鮮の全権代表として清から派遣された馬建忠と緊密に協力し、円満に業務を処理したという評価を受けた。その年の夏、壬午軍乱で日本と交渉したときも、馬建忠の指示を受け、済物浦条約を締結した。清朝で朝鮮政策を担っていた馬建忠は、金弘集について「朝鮮で随一の人物だ」と評した。このように「親清派」だと思われていた金弘集が、10年後には「親日派」として追われ、殴り殺されるという結末を迎えたというわけだ。
19世紀中国の対外関係史を専攻する岡本隆司・京都府立大教授(44)は、ロシア・日本・清・米国など列強に取り囲まれた朝鮮の運命について、金弘集の殺害と関連付けて話を進めた。
朝鮮は中国に「事大」する朝貢国だった。19世紀後半、東アジアに西洋列強が進出する中、清と日本、そして列強の利害関係が衝突し始めた。明治維新以降、近代化を通じ急速に国力を伸ばしていた日本は、1879年に清の属国だった琉球を併合した。これに衝撃を受けた清は、朝鮮と西欧列強の条約締結を急ぎ、日本が朝鮮に手を伸ばすことを防ごうとした。日本政府と交渉するため修信使として日本に向かった金弘集が、日本にある清の公使館の参事官・黄遵憲が書いた『朝鮮策略』を入手して帰国したのは、1880年10月初めのことだった。
「朝鮮は清の属国で、内政・外交は朝鮮の自主である」。これは、中国の北洋大臣・李鴻章と金允植(キム・ユンシク)が協議した米国との条約草案第1条の条文だ。李鴻章はこの条文を通じ、朝鮮が清の属国であることを西洋各国に認めさせようとした。朝鮮はなぜこの条文に同意したのか。金允植は、列強の主権侵奪に対する防壁として清を活用するための意図があった、と日記『陰晴史』に記した。内政・外交はこれまで通り朝鮮の意のままに行えばよく、損をすることはない、というわけだ。岡本教授は、これを「属国自主」という言葉で表現した。
19世紀後半の近代的条約体系と伝統的中華秩序が衝突し、新たな地域秩序を築いていく道は、このように険しく困難だった。100年前の韓半島(朝鮮半島)は、自主と独立を守るために周辺列強の勢力均衡と韓半島の非武装化を夢見た。しかしこうした対外依存的な路線は、勢力の均衡が破れると「自主」が崩れるという危険性をはらんでいた。日清戦争と日露戦争でライバルを退けた日本が朝鮮を植民地にしたことだけを見ても、これは明らかだ。
ならば、ヨーロッパのように自ら軍事力を育て、勢力の均衡を作り出す道はなかったのか。不幸にも、朝鮮はヨーロッパとは異なり、日本・中国・ロシアという超大国に隣接している。そのため、これらの国々と競い合えるだけの軍事力を育てるのはほぼ不可能だった。著者の岡本教授は、金弘集が当時、朝鮮がこうした路線を追求するのは「幻想」だと考え、状況によっては清を支持し、ある時は日本の甲午改革に協力したと解釈した。100年前の東アジアの国際秩序を見つめる本書の問題意識は、北朝鮮の核問題をはじめとする韓半島(朝鮮半島)問題の解決が現在もなお、周辺大国の支持と協力なくしては容易ではない、という教訓を示している。
キム・ギチョル記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
世界がこんな国に本当に注目しているとおもっているのか?
100年前の朝鮮の苦難
【新刊】岡本隆司著、カン・ジナ訳『未完の企画、朝鮮の独立』(笑臥堂)
1896年2月11日、光化門の外。興奮した群集が総理大臣・金弘集(キム・ホンジプ)を取り囲んだ。金弘集は「天命」だとして素直に身を任せ、群衆は金弘集を殴り殺した。高宗はこの日未明に王宮を抜け出してロシア公使館へ逃げ込み、金弘集を逆賊と規定した。95年10月に発生した明成皇后殺害事件の処理で、金弘集が微温的だったことに疑いを持ったのだ。
金弘集は1882年に米国・イギリス・ドイツと条約を結ぶ際、事実上朝鮮の全権代表として清から派遣された馬建忠と緊密に協力し、円満に業務を処理したという評価を受けた。その年の夏、壬午軍乱で日本と交渉したときも、馬建忠の指示を受け、済物浦条約を締結した。清朝で朝鮮政策を担っていた馬建忠は、金弘集について「朝鮮で随一の人物だ」と評した。このように「親清派」だと思われていた金弘集が、10年後には「親日派」として追われ、殴り殺されるという結末を迎えたというわけだ。
19世紀中国の対外関係史を専攻する岡本隆司・京都府立大教授(44)は、ロシア・日本・清・米国など列強に取り囲まれた朝鮮の運命について、金弘集の殺害と関連付けて話を進めた。
朝鮮は中国に「事大」する朝貢国だった。19世紀後半、東アジアに西洋列強が進出する中、清と日本、そして列強の利害関係が衝突し始めた。明治維新以降、近代化を通じ急速に国力を伸ばしていた日本は、1879年に清の属国だった琉球を併合した。これに衝撃を受けた清は、朝鮮と西欧列強の条約締結を急ぎ、日本が朝鮮に手を伸ばすことを防ごうとした。日本政府と交渉するため修信使として日本に向かった金弘集が、日本にある清の公使館の参事官・黄遵憲が書いた『朝鮮策略』を入手して帰国したのは、1880年10月初めのことだった。
「朝鮮は清の属国で、内政・外交は朝鮮の自主である」。これは、中国の北洋大臣・李鴻章と金允植(キム・ユンシク)が協議した米国との条約草案第1条の条文だ。李鴻章はこの条文を通じ、朝鮮が清の属国であることを西洋各国に認めさせようとした。朝鮮はなぜこの条文に同意したのか。金允植は、列強の主権侵奪に対する防壁として清を活用するための意図があった、と日記『陰晴史』に記した。内政・外交はこれまで通り朝鮮の意のままに行えばよく、損をすることはない、というわけだ。岡本教授は、これを「属国自主」という言葉で表現した。
19世紀後半の近代的条約体系と伝統的中華秩序が衝突し、新たな地域秩序を築いていく道は、このように険しく困難だった。100年前の韓半島(朝鮮半島)は、自主と独立を守るために周辺列強の勢力均衡と韓半島の非武装化を夢見た。しかしこうした対外依存的な路線は、勢力の均衡が破れると「自主」が崩れるという危険性をはらんでいた。日清戦争と日露戦争でライバルを退けた日本が朝鮮を植民地にしたことだけを見ても、これは明らかだ。
ならば、ヨーロッパのように自ら軍事力を育て、勢力の均衡を作り出す道はなかったのか。不幸にも、朝鮮はヨーロッパとは異なり、日本・中国・ロシアという超大国に隣接している。そのため、これらの国々と競い合えるだけの軍事力を育てるのはほぼ不可能だった。著者の岡本教授は、金弘集が当時、朝鮮がこうした路線を追求するのは「幻想」だと考え、状況によっては清を支持し、ある時は日本の甲午改革に協力したと解釈した。100年前の東アジアの国際秩序を見つめる本書の問題意識は、北朝鮮の核問題をはじめとする韓半島(朝鮮半島)問題の解決が現在もなお、周辺大国の支持と協力なくしては容易ではない、という教訓を示している。
キム・ギチョル記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
世界がこんな国に本当に注目しているとおもっているのか?
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