Re: 淵沢能恵の生涯 海を越えた明治の女性
投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/08/30 00:43 投稿番号: [3069 / 3669]
>女子の教育の必要はいうまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった、自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に語をもちかけて見ると、趣旨にに賛成するが−それだけの話で一向動いてはくれなかった、悲観した、といって、誰が形をつけてくれよう、そこで厳妃を総裁に仰いで日韓婦人会を創設して、双方の婦人を交際させお互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た、ついに時機到来して耳をかす人も現われ、愈よ学校を開設することになって、李太王に校名をつけていただくことになった、すると快く『晋信館』とおつけになったが、何うも学校名としてはふさはしくない、それでこれをお返しして再び校名を御依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてに何うか』とおっしゃった、これで『明新女学校』の木の香もゆかしい看板をかがけて蓋をあけたが、結果はすっかり案に相違した
>大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある、如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばやらぬ、しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れす溜息を洩らすより仕方がなかった、そここで更に各方面を勧誘して漸次生徒も増加した、そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田舎を下賜されたので学校の経営に始めて本格的になり現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った
韓国の雑誌記事を検索してみたら,こんなのがありました。
『週刊朝鮮』2000年10月18日号
淑明女大の歴史
−高宗皇室が1906年に設立した民族女性私学
淑明女大は1906年高宗皇室が,わが国の力で作った女性教育機関の必要性を痛感し,ヨングン洞に学校の敷地を定め,創学の下地を整えた。日帝下だった当時,わが国の近代教育史上,初めて韓国人校長(カトリック婦人李ジョンスク女史)が就任した淑明女大は,英親王宮など皇室が下賜した農耕地からの収益金を財源として,11歳〜25歳の女学生5人を選抜して門を開いた。
http://weekly.chosun.com/news/html/200010/200010100018.html
ひどい歪曲だ。
>大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある、如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばやらぬ、しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れす溜息を洩らすより仕方がなかった、そここで更に各方面を勧誘して漸次生徒も増加した、そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田舎を下賜されたので学校の経営に始めて本格的になり現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った
韓国の雑誌記事を検索してみたら,こんなのがありました。
『週刊朝鮮』2000年10月18日号
淑明女大の歴史
−高宗皇室が1906年に設立した民族女性私学
淑明女大は1906年高宗皇室が,わが国の力で作った女性教育機関の必要性を痛感し,ヨングン洞に学校の敷地を定め,創学の下地を整えた。日帝下だった当時,わが国の近代教育史上,初めて韓国人校長(カトリック婦人李ジョンスク女史)が就任した淑明女大は,英親王宮など皇室が下賜した農耕地からの収益金を財源として,11歳〜25歳の女学生5人を選抜して門を開いた。
http://weekly.chosun.com/news/html/200010/200010100018.html
ひどい歪曲だ。
これは メッセージ 3064 (monju_jz さん)への返信です.
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