韓洪九を読む (2)
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/05/09 21:44 投稿番号: [2069 / 3669]
「満州国の影〜大韓民国が学んだ教科書」
>1930年代の満州は「東洋の西部(ウェスタン)」でした。未開拓の荒野、夢をかなえてくれる地でした。1920年代までは破産した朝鮮同胞がやむなく荷物をまとめて満州に向かったとしたら、1930年代の日本と朝鮮の青年のなかには出世や一攫千金の夢を抱いて満州に向かった人も多かったのです。教師という安定した職業を捨て、「長い刀を差したくて」満州軍官学校を志願したパク・チョンヒもそうした若者の一人でした。
>北朝鮮におよぼした満州の影響が日帝とその傀儡国家満州国に対する抵抗のなかで胚胎したとすれば、韓国におよぼした満州の影響はパク・チョンヒを始めとした満州人脈の経験に求められます。満州軍官学校出身の満州人脈が軍の要職を占め、陸軍参謀総長(チョン・イルゴン)、一軍司令官(ペク・ソニョン)、二軍司令官(カン・ムンボン)が同時に満州人脈によって占められた時期もありました。しかし、満州国の影が本格的に韓国社会に落ちるようになったのは、やはり1961年の5・16軍事クーデターによって、満州軍官学校出身のパク・チョンヒが政権を握ってからのことです。
>1960年代の経済開発計画もその根は満州国時代にさかのぼります。岸信介、椎名悦三郎など日本の当時のいわゆる革新官僚たちは、自分たちの理想が日本ではさまざまな制約のもとで実現できないため、満州国の実業部に行って経済開発計画を強力に推進しました。満州国は日本の国家改造を夢みる高級将校と革新官僚の実験室となり、この実験室で検証された経済開発計画が日本で留守を守っていた彼らの同僚たちによって日本に輸入されました。
ところで、(韓国の)経済開発計画の内容を見ると、軍事産業に力点を置いた自給自足的重化学工業化と輸出主導型の成長を追及したパク・チョンヒ時代の計画は、植民地近代化論者が主張する朝鮮総督府の経済開発政策や日本本土の経済開発政策より、満州国の経済開発計画の基本方向を受け継いだものです。パク・チョンヒ時代の経済開発は1965年の日本との国交樹立を通じた日本資本の輸入によって推進されました。そのとき日本側で日韓国交正常化を積極的に推進した人物が、岸元総理で、当時外相として日韓基本条約に署名した人物が椎名であったことは決して偶然ではありません。韓国と日本の満州人脈の協力と相互信頼をもとに日韓会談は推進されたのです。1961年11月に国家再建最高会議議長として訪日したパク・チョンヒは、池田勇人総理が主催する公式晩餐会にある来賓を特別に招待することを要請しました。それはパク・チョンヒの満州軍官学校の校長であった南雲将軍でした。満州軍官学校時代の高木正雄に戻ったパク・チョンヒは南雲にお辞儀をしてお酌までしました。これは日本の満州人脈に送った無言のメッセージで、韓国に満州国の影が本格的に落とされることになることを告げる象徴的な事件でした。
>1930年代の満州は「東洋の西部(ウェスタン)」でした。未開拓の荒野、夢をかなえてくれる地でした。1920年代までは破産した朝鮮同胞がやむなく荷物をまとめて満州に向かったとしたら、1930年代の日本と朝鮮の青年のなかには出世や一攫千金の夢を抱いて満州に向かった人も多かったのです。教師という安定した職業を捨て、「長い刀を差したくて」満州軍官学校を志願したパク・チョンヒもそうした若者の一人でした。
>北朝鮮におよぼした満州の影響が日帝とその傀儡国家満州国に対する抵抗のなかで胚胎したとすれば、韓国におよぼした満州の影響はパク・チョンヒを始めとした満州人脈の経験に求められます。満州軍官学校出身の満州人脈が軍の要職を占め、陸軍参謀総長(チョン・イルゴン)、一軍司令官(ペク・ソニョン)、二軍司令官(カン・ムンボン)が同時に満州人脈によって占められた時期もありました。しかし、満州国の影が本格的に韓国社会に落ちるようになったのは、やはり1961年の5・16軍事クーデターによって、満州軍官学校出身のパク・チョンヒが政権を握ってからのことです。
>1960年代の経済開発計画もその根は満州国時代にさかのぼります。岸信介、椎名悦三郎など日本の当時のいわゆる革新官僚たちは、自分たちの理想が日本ではさまざまな制約のもとで実現できないため、満州国の実業部に行って経済開発計画を強力に推進しました。満州国は日本の国家改造を夢みる高級将校と革新官僚の実験室となり、この実験室で検証された経済開発計画が日本で留守を守っていた彼らの同僚たちによって日本に輸入されました。
ところで、(韓国の)経済開発計画の内容を見ると、軍事産業に力点を置いた自給自足的重化学工業化と輸出主導型の成長を追及したパク・チョンヒ時代の計画は、植民地近代化論者が主張する朝鮮総督府の経済開発政策や日本本土の経済開発政策より、満州国の経済開発計画の基本方向を受け継いだものです。パク・チョンヒ時代の経済開発は1965年の日本との国交樹立を通じた日本資本の輸入によって推進されました。そのとき日本側で日韓国交正常化を積極的に推進した人物が、岸元総理で、当時外相として日韓基本条約に署名した人物が椎名であったことは決して偶然ではありません。韓国と日本の満州人脈の協力と相互信頼をもとに日韓会談は推進されたのです。1961年11月に国家再建最高会議議長として訪日したパク・チョンヒは、池田勇人総理が主催する公式晩餐会にある来賓を特別に招待することを要請しました。それはパク・チョンヒの満州軍官学校の校長であった南雲将軍でした。満州軍官学校時代の高木正雄に戻ったパク・チョンヒは南雲にお辞儀をしてお酌までしました。これは日本の満州人脈に送った無言のメッセージで、韓国に満州国の影が本格的に落とされることになることを告げる象徴的な事件でした。
これは メッセージ 2067 (trek022 さん)への返信です.
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