>朝鮮通信使についての正しい知識
投稿者: samurai_03_japanjp 投稿日時: 2005/08/06 21:31 投稿番号: [488 / 2503]
>専門家の大学教授や郷土歴史家などの講演に何度も出席し、積極的に質問したりして勉強すれば、正しい知識が得られますよ。
貴殿が「正しい知識」を持っているようにも、見受けられない。
>>江戸城の正門ではなく裏門から出入りし
>正門が大行列が通るには狭過ぎたからです。
などと言っているし。
江戸城には「正門も裏門もありません」
石高、格式によって使える門が異なっているだけです。
>正門が大行列が通るには狭過ぎたからです
ちゃんと「勉強」しましたか?
この屏風に描かれている門(通信使が出入りしている門)は「大手門」ですよ?
「大手門」は格式としては、御三家・譜代大名十万石以上・老中・若年寄の使用する通用門です。
尾張、紀伊、水戸の御三家(徳川家)、一ツ橋、清水、田安の御三卿、
井伊中将、会津・越前・高松・雲州・西条・館林各松平、酒井、榊原、小笠原、
水野、保科、本多、奥平、阿部、稲葉、藤堂。
「三百諸侯」中、上記の家しか使用が許されなかった門です。
一応の礼節を持って迎え入れているのですよ。
>大きな川を将軍と通信使が通るたびに船橋という手のかかるものを作っては壊させたのに、大名が通る時は作らせなかったこと
これは無関係でしょう。
大名家に大河川での架橋を許さなかったのは、幕府の国内防衛政策の一環ですから。
朝鮮通信使はその実、かなりの出費を幕府に強いました。
一説によると、総費用は百万両との試算があります。
享保15年(1730年)での幕府歳入が約79万8000両です。
1年の歳入を上回る出費なのですから、架橋無しで「足止め」をさせては更に出費がかさばる。
単にそれだけの理由ですよ。
>豊臣政権に替わり外交権を内外に誇示するため、徳川家康は朝鮮国に屈従を求めるようなことをしませんでした。その方針が後代に受け継がれたのです
そうとも言い切れません。
オランダ商館・館長の江戸参府や、琉球加羅の慶賀使・謝恩使とともに、
参勤交代と同じく将軍へ「お目見」のために江戸へ来て、将軍から「御いとま」をもらって帰るのだと説明され、
使節の来日が「御札」「入貢」と表現されたりもしています。
江戸城に於いて、使節が朝鮮国王の国書を奉呈する際に四拝礼が行われます。
このとき使節と将軍の間に国書が置かれました。
朝鮮使節は、あくまでも自国の国王の国書に対して四礼拝をおこなったこととして、
将軍は将軍で朝鮮使節が自分に対して四礼拝をおこなったと解釈して満足する。
といったやり方が案出されました。
お互いに「微妙な交隣外交としての、通信使外交」だったのですよ。
これは メッセージ 485 (korean_tiger2003 さん)への返信です.
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