東拓移民
投稿者: monjujz 投稿日時: 2008/09/16 20:06 投稿番号: [956 / 1474]
http://blog.livedoor.jp/tkknrak/archives/cat_1460128.html
友邦シリーズ第21号
資料選集 東洋拓殖会社
猪又正一「私の東拓回顧録」p40〜41
移民の状況
最初の移民は日韓併合直後、各地とも交通の便がまだ開けない時代であったから、鉄道路線から離れたところでは、汽車から降りると、家族一行全部が牛背により、また引越し荷物は全部牛車につけて二十キロ位の途を入り、鮮農ばかりの部落に入り込み、鮮人住家の一角を借りてようやく落ち着いた。当時、移民の多くは生計不如意の上に、買い物も不便であったため、極度の耐乏生活をなし、中には一匹の塩鮭を吊るして置いて、一ヶ月間もかかって切って食べたという話もあったくらいである。
ところが大正7、8年頃に至り米価が高騰し、大正9年一時下がったものが、大正11年頃再び回復したので、移民の生活状態も漸次好転し、一面果樹園の経営、養豚、養鶏、養蚕その他小型発動機により精玄精白作業等の多角経営により収入の増加を来たし、しかも割当地の代金は極めて安いため、年賦金の負担も大した重荷とならず、これがため相当豊かな生活をするものが多くなり、地方に貢献しえるようになった。
その後の状況
昭和のはじめから15年頃までの間、経済界の変動に応じ移民の生活状態も紆余曲折はあったが、大体において向上した。しかしこれが日支事変以後戦時体制に入り、殊に昭和15年頃より経済統制が強化されるに至り、移民は最も強くその影響を受け、生活困難に立至った。
もともと移民は内地の集約農法に馴れており、粗放農業は不得手である。それで東拓から比較的よい土地を割り当てられ、これに対し鮮農に比し単位面積あたり二倍三倍の労力と肥料を投じて集約経営をなすことにより、二倍三倍の収穫を挙げ、又鮮農は籾までが生産過程であるが、移民は時価生産籾を米とするのみならず、さらに鮮人の籾を買い入れてまで精玄して収益を挙げるのである。そこで精玄副産物で養豚、養鶏を行い、さらにこれによって生ずる堆肥を利用して果樹園経営や野菜の栽培をする等多角経営をしていたのであった。
ところが戦時下の経済統制時代に入ると、行政の末端期間が全部鮮人職員である関係もあり、肥料の如きも均等割当となり、労力も共同作業の関係で移民が後回しとなる、又一率に籾供出を強制されるため精玄作業ができなくなり、その結果は養豚、養鶏、果樹園、野菜等に順次影響して不能となった。そこで移民はその生活水準を極度に下げない限り、生きて行けない破目に陥ったのである。
なおこの時代に入っては、移民も大体第二世の時代となり、彼らは相当学校教育も受けているので、前述のような田舎生活に耐えかねて離村して都会に走り、甚だしきは朝鮮の生活に見切りをつけ、割当地を放売して内地に引き上げたものもあった。
以上のごとく東拓移民は朝鮮農業開発の先駆者であり、功労者でありながら、その目的が達成され、所期の成績を挙げた上は、無用の長物視され、最後に引揚げの憂き目を見たわけでこの点誠に同情に堪えない。国家としても会社としても、この移民の労苦に対し満腔の謝意を表すべきものと思われる。
友邦シリーズ第21号
資料選集 東洋拓殖会社
猪又正一「私の東拓回顧録」p40〜41
移民の状況
最初の移民は日韓併合直後、各地とも交通の便がまだ開けない時代であったから、鉄道路線から離れたところでは、汽車から降りると、家族一行全部が牛背により、また引越し荷物は全部牛車につけて二十キロ位の途を入り、鮮農ばかりの部落に入り込み、鮮人住家の一角を借りてようやく落ち着いた。当時、移民の多くは生計不如意の上に、買い物も不便であったため、極度の耐乏生活をなし、中には一匹の塩鮭を吊るして置いて、一ヶ月間もかかって切って食べたという話もあったくらいである。
ところが大正7、8年頃に至り米価が高騰し、大正9年一時下がったものが、大正11年頃再び回復したので、移民の生活状態も漸次好転し、一面果樹園の経営、養豚、養鶏、養蚕その他小型発動機により精玄精白作業等の多角経営により収入の増加を来たし、しかも割当地の代金は極めて安いため、年賦金の負担も大した重荷とならず、これがため相当豊かな生活をするものが多くなり、地方に貢献しえるようになった。
その後の状況
昭和のはじめから15年頃までの間、経済界の変動に応じ移民の生活状態も紆余曲折はあったが、大体において向上した。しかしこれが日支事変以後戦時体制に入り、殊に昭和15年頃より経済統制が強化されるに至り、移民は最も強くその影響を受け、生活困難に立至った。
もともと移民は内地の集約農法に馴れており、粗放農業は不得手である。それで東拓から比較的よい土地を割り当てられ、これに対し鮮農に比し単位面積あたり二倍三倍の労力と肥料を投じて集約経営をなすことにより、二倍三倍の収穫を挙げ、又鮮農は籾までが生産過程であるが、移民は時価生産籾を米とするのみならず、さらに鮮人の籾を買い入れてまで精玄して収益を挙げるのである。そこで精玄副産物で養豚、養鶏を行い、さらにこれによって生ずる堆肥を利用して果樹園経営や野菜の栽培をする等多角経営をしていたのであった。
ところが戦時下の経済統制時代に入ると、行政の末端期間が全部鮮人職員である関係もあり、肥料の如きも均等割当となり、労力も共同作業の関係で移民が後回しとなる、又一率に籾供出を強制されるため精玄作業ができなくなり、その結果は養豚、養鶏、果樹園、野菜等に順次影響して不能となった。そこで移民はその生活水準を極度に下げない限り、生きて行けない破目に陥ったのである。
なおこの時代に入っては、移民も大体第二世の時代となり、彼らは相当学校教育も受けているので、前述のような田舎生活に耐えかねて離村して都会に走り、甚だしきは朝鮮の生活に見切りをつけ、割当地を放売して内地に引き上げたものもあった。
以上のごとく東拓移民は朝鮮農業開発の先駆者であり、功労者でありながら、その目的が達成され、所期の成績を挙げた上は、無用の長物視され、最後に引揚げの憂き目を見たわけでこの点誠に同情に堪えない。国家としても会社としても、この移民の労苦に対し満腔の謝意を表すべきものと思われる。
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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