Re: 座間味島「集団自決」で新証言 3
投稿者: doronpa95 投稿日時: 2008/03/04 04:16 投稿番号: [833 / 1474]
どうして「世報」が・・・?
それはおいといて、消える可能性が高いな・・・。
「日本人の誉」守り自決選択
米軍の恐怖目前に迫り 隊長の制止振り切り
村の幹部たちが隊長から拒絶されながらも遂行した「集団自決」。これを「皇民化教育の犠牲者」などと死者をなじることは許されないと考える。軍の関与なき自決を宮平秀幸氏は、「今の言葉で言えば、尊厳死」と表現した。人々をそこまで追い込んだ要素の中核を占めたのは、米軍への恐怖だった。
昭和十九年七月、サイパン島が陥落した際、約一万二千人の邦人が犠牲となった。彼らは米軍への投降を拒み、崖(がけ)から身を投げ出したり自決したりした。「虐待しない」という米軍の宣伝を信じて投降した婦女子が全員素っ裸にされてトラックで連行された。老人子供は火の海に投げ込まれた、発見された赤ん坊は両足から真二つに引き裂かれて火の中へ投げ込まれた、という目撃証言もある。
不運にも犠牲者の半数以上が沖縄出身者であり、しかも慶良間諸島の人が多かったとされる。米英はまさに「鬼畜」として受け止められたのである。サイパン玉砕を、高村光太郎は「かかる古代の心を堅持してゐる唯一のわれわれ民族こそ、いはゆる文明によつて低下した世界の野卑な生活を救ふのである」と称賛、林芙美子は「私も死ぬときが来たら立派に死にたいと思ふ」と朝日新聞に書いた。
『軍神』の筆者、山室建徳氏は昨年、文部科学省から教科書の沖縄戦集団自決の記述に関する意見陳述を求められた際、こうした事実を踏まえて「軍人が文字通りの死闘を繰り広げる中で、民間人だけがおめおめと敵に投降するなどあり得ない、日本人全体が一丸となって、決して屈服しないことを見せつけるべきという考えが、日本社会に拡がっていたことが分かる」と指摘したのである。 「沖縄新報」は昭和二十年二月十六日付の社説でこう訴える。
「郷土沖縄は本土の一部である、これを敵の泥足に踏み躙(にじ)らせてよいものか、皇土中の皇土であり、われらの父祖伝来の愛土を、県民が全責任をもつて郷土を護り抜かなければ一体誰が護るのだ、軍には軍の使命がある、軍が専ら戦つてくれるであろう、軍ばかり頼つて一身の安危に汲々とするものが居たら却て軍の作戦行動に邪魔するのが落ちであろう」
悪夢は現実のものとなって、慶良間諸島の住民を襲った。慶良間海峡には、船伝いに島から島へ渡れると思うほどの米軍艦船が押し掛けて、容赦ない砲撃を繰り返した。空からはガソリンがまかれ、グラマン、B24など米軍機の銃爆撃が島と村人を襲った。当時の座間味郵便局長、石川重徳氏は「村役場の三役にはよく会っていたが、戦況が日増しに厳しく『敵が上陸したら、何とか安らかに死にたいね』とよく口にしていた」と神戸新聞の取材に答えている。
だから、宮里盛秀助役が梅澤隊長に「若者は軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思う」と自決用武器の供与を願い出たのも、それを断られてなお自ら死を選んだことも、敵の猛攻撃や当時の日本全土を包んだ空気からも極めて自然なことだった。
座間味島では、日中戦争などで国のために戦死、病死した人の家には「誉れの家」の札が掛かっていたという。英霊が靖国神社に祭られることが日本人の最高の栄誉であり、本望とされていた。遺族は特別扱いされ、隣近所の人たちが田畑や薪(たきぎ)取りなどの勤労奉仕をした。だから「同じ亡くなるならば、『誉れの家』の家紋をもらい、靖国に祀られたいと思っていた。だから、死ぬことを全然厭(いと)わなかった」(宮平秀幸氏)。集団自決した村人もまた、彼らの「戦争」から逃げずに戦ったのだ。
捕虜となった宮城初枝さんは、米兵の「両親の自殺行為はなぜ?」という尋問に、「米軍上陸の恐怖の為です」と手記に残している。
まだ、入らなかったので続けます。
「日本人の誉」守り自決選択
米軍の恐怖目前に迫り 隊長の制止振り切り
村の幹部たちが隊長から拒絶されながらも遂行した「集団自決」。これを「皇民化教育の犠牲者」などと死者をなじることは許されないと考える。軍の関与なき自決を宮平秀幸氏は、「今の言葉で言えば、尊厳死」と表現した。人々をそこまで追い込んだ要素の中核を占めたのは、米軍への恐怖だった。
昭和十九年七月、サイパン島が陥落した際、約一万二千人の邦人が犠牲となった。彼らは米軍への投降を拒み、崖(がけ)から身を投げ出したり自決したりした。「虐待しない」という米軍の宣伝を信じて投降した婦女子が全員素っ裸にされてトラックで連行された。老人子供は火の海に投げ込まれた、発見された赤ん坊は両足から真二つに引き裂かれて火の中へ投げ込まれた、という目撃証言もある。
不運にも犠牲者の半数以上が沖縄出身者であり、しかも慶良間諸島の人が多かったとされる。米英はまさに「鬼畜」として受け止められたのである。サイパン玉砕を、高村光太郎は「かかる古代の心を堅持してゐる唯一のわれわれ民族こそ、いはゆる文明によつて低下した世界の野卑な生活を救ふのである」と称賛、林芙美子は「私も死ぬときが来たら立派に死にたいと思ふ」と朝日新聞に書いた。
『軍神』の筆者、山室建徳氏は昨年、文部科学省から教科書の沖縄戦集団自決の記述に関する意見陳述を求められた際、こうした事実を踏まえて「軍人が文字通りの死闘を繰り広げる中で、民間人だけがおめおめと敵に投降するなどあり得ない、日本人全体が一丸となって、決して屈服しないことを見せつけるべきという考えが、日本社会に拡がっていたことが分かる」と指摘したのである。 「沖縄新報」は昭和二十年二月十六日付の社説でこう訴える。
「郷土沖縄は本土の一部である、これを敵の泥足に踏み躙(にじ)らせてよいものか、皇土中の皇土であり、われらの父祖伝来の愛土を、県民が全責任をもつて郷土を護り抜かなければ一体誰が護るのだ、軍には軍の使命がある、軍が専ら戦つてくれるであろう、軍ばかり頼つて一身の安危に汲々とするものが居たら却て軍の作戦行動に邪魔するのが落ちであろう」
悪夢は現実のものとなって、慶良間諸島の住民を襲った。慶良間海峡には、船伝いに島から島へ渡れると思うほどの米軍艦船が押し掛けて、容赦ない砲撃を繰り返した。空からはガソリンがまかれ、グラマン、B24など米軍機の銃爆撃が島と村人を襲った。当時の座間味郵便局長、石川重徳氏は「村役場の三役にはよく会っていたが、戦況が日増しに厳しく『敵が上陸したら、何とか安らかに死にたいね』とよく口にしていた」と神戸新聞の取材に答えている。
だから、宮里盛秀助役が梅澤隊長に「若者は軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思う」と自決用武器の供与を願い出たのも、それを断られてなお自ら死を選んだことも、敵の猛攻撃や当時の日本全土を包んだ空気からも極めて自然なことだった。
座間味島では、日中戦争などで国のために戦死、病死した人の家には「誉れの家」の札が掛かっていたという。英霊が靖国神社に祭られることが日本人の最高の栄誉であり、本望とされていた。遺族は特別扱いされ、隣近所の人たちが田畑や薪(たきぎ)取りなどの勤労奉仕をした。だから「同じ亡くなるならば、『誉れの家』の家紋をもらい、靖国に祀られたいと思っていた。だから、死ぬことを全然厭(いと)わなかった」(宮平秀幸氏)。集団自決した村人もまた、彼らの「戦争」から逃げずに戦ったのだ。
捕虜となった宮城初枝さんは、米兵の「両親の自殺行為はなぜ?」という尋問に、「米軍上陸の恐怖の為です」と手記に残している。
まだ、入らなかったので続けます。
これは メッセージ 832 (doronpa95 さん)への返信です.
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