韓カテ資料室

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

百済武寧王について(18)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/04/02 01:32 投稿番号: [567 / 1474]
今回でオシマイです。
ほんと、無駄に長くて苦痛の多い文章だったなぁ。(苦笑)

・・・・・・・

  歴史が伝える斯麻王の生涯を通じて見る時本当に多難であり、彼は一〇代の幼い身柄で「武」という名をもって倭の王位につき、はるか百済の父王が悲惨な最期にであったということに接する。その後四〇代の壮年期にたっし百済王として帰国、父王の遺志を受け継ぎ百済中興を企てたが五二三年五月六二歳を一期に今の公州で崩御したのである。(26)
  第三に、『日本書紀』武烈紀六年条(加筆だと思う)には斯麻王が五〇四年「麻那君をつかわし貢物をささげた」とある。しかし次の年五〇五年天皇は「麻那君は百済の骨族」ではないという理由で彼を拒否したため、王はまた「斯我君をつかわして天皇につかえるようにした」という。
ところが、この「斯我君」はほかでもない斯麻王の太子を言うのだが、彼は不幸にも若い歳で倭国で逝去したという(27)。『書紀』は彼の王子「法師君」をさして、彼が「すなわち倭君の先祖だ」といっている。なにゆえ『書紀』が、法師君を「倭君(やまとぎみ)の先祖」に推たいしたのか、その背景はよくわからないが、法師君が「倭君の先祖」という事実は彼がすなわち「倭王の先祖」だと言うのと同じことである(28)。だから法師君が「倭王の先祖」だというと彼の父王である「斯我君」が一時「倭」にいたという事実も倭王位につくためであったと見なすべきである。
  そして、「法師君」の祖父である斯麻王の場合も彼が四六一年「各羅嶋」で誕生し、五〇二年帰国前まで「嶋(斯麻)君」の身分で「倭国」にいたという事実も、倭王位にいたとみなければならないのであろう(29)。
  第四番目は、斯麻王は五二三年崩御後、百済武寧王という諡号を贈られたが、彼はこの諡号でもっともよく知られた人物でもある。彼の諡号である武寧は太子である明王(諡号、聖明王)が父王の威徳をたたえるために制定したのであり、斯麻王においては「武寧」という諡号がもつ意義は実に偉大なものであるといえよう。
  武寧王の人品について、『三国史記』は彼を「背が八尺であり、容貌は絵のようで、性品が仁慈で寛厚なため民心がよく従い付くのであった」というふうに描写している。このような点からおして、彼が少年の時、倭の王位に付いた時も、彼の父王は「武」と命名したとみなされ、王の死後彼の太子である明王も父王の諡号を制定する際、父王と因縁の深い少年時代の名前である倭王「武」の字に「寧」の字を結合したもののようである(30)。
  「武」と「寧」の字は斯麻王にとっては何よりも由緒深い字で「武」の字の次の「寧」はいわば王が六〇歳の還暦をむかえた五二一年、梁帝から授けられた最期の官爵であり彼にとっては最高のものであったと言える「寧東大将軍・百済王」の頭文字である。
  このように、「武」と「寧」の字は斯麻王にとってはもっとも因縁の深い字であり彼の諡号武寧は永遠に輝く諡号になるであろう。

・・・・・・・

最後の2段落が、いかにも朝鮮学者らしい恍惚表現ですねー。

で、こんな長くて読みにくい電波論文ですが、読みやすいように、単純明快にデフォルメされたものがあるんですよ。

あずまんが嫌論文   1
http://www.geocities.jp/toaniuniu/shiryou/iyaronbun.html

ぶっちゃけた話、自サイト収録なんですがね。(苦笑)
気が向いたら見てやってください。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)