百済武寧王について(17)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/26 19:59 投稿番号: [554 / 1474]
>上表文を通じて見た倭王「武」は、天皇系に属する雄略天皇とは無関係の間柄であり、むしろ百済王家系譜に属している人物であるという事実を知ることができた。
・・・上表文を見たって、そんな「事実」は、まったく読み取れもしませんが何か?
>彼には百済の痛みは自分自身と痛みとなり、また百済の不運は自身(倭国)の不運につながる、百済との一体感をもっているそういう人物であった。
それ、ただの主観的な感想に過ぎないし。
・・・・・・・
五 倭王武、彼はだれなのか
――「武」は、少年「斯麻君」
上表文を通じて見た倭王「武」は、天皇系に属する雄略天皇とは無関係の間柄であり、むしろ百済王家系譜に属している人物であるという事実を知ることができた。彼には百済の痛みは自分自身と痛みとなり、また百済の不運は自身(倭国)の不運につながる、百済との一体感をもっているそういう人物であった。故に東アジアの激動期に「倭国」を統治したという「武」の正体を明かすということは、実に重大な課題であるといわざるをえない。
ところが、この時代の史料はきわめて制限されているため研究の苦しみは並々ならぬことであるが、幸いわれわれには、「武」が直接書いたという上表文があるため、これを土台に検討すれば遠からぬ将来「武」の正体が究明されるだろう。
第一、「武」は上表文で百済に対する高句麗の攻勢が絶頂にたっしたとき(四七五年頃)、自分の父兄が急に死去したため大軍の動員もできなかったといっている。ところが、その頃「倭」や百済で急死したと見なす王と王子は『三国史記』と『日本書紀』に記録されている百済蓋鹵王と大妃そして彼らの王子の悲惨な最期以外には見えないのである。
二つの史書によると、四七五年高句麗大軍の七日間にわたる攻勢のため、慰礼城が落ち、王(蓋鹵王)と大妃そして王子らは高句麗の将帥により阿且城で無残な殺害にあったという。したがって、「武」がいう「奄喪父兄」は、ほかでもない百済蓋鹵王とその王子の悲惨な最期を語るものと見なさなければならないし、「武」は直ちに殺された蓋鹵王の太子と見なすべきである(24)。
そして、彼は上表文に殺害された父王の喪を、天子の死に比ゆする「諒闇」(りょうあん)(諒闇は「崩」の字をもちいる場合にだけつかうことができる)と表記し父王に対する大王としての礼遇をおろそかにしなかった。特に、彼の心中深く据え付けていた高句麗に対する憎悪感と復讐心は、ほかならぬ父王の遺志というから彼が蓋鹵王の太子である「斯麻君」でなくてだれであろうか。
次に、『宋書』によると、四七八年(昇明二年)順帝は、「武」が自ら願った「安東大将軍・倭国王」を授けたといい、その翌年の四七九年には南斉の高帝が「鎮東大将軍・倭国王」を、そして二〇年後である五〇二年(天監元年)には梁武帝が「征東大将軍・倭国王」を各々武に昇爵除授したという。
このような官号の昇爵除授を通じて見た場合、「武」の倭王位は少なくとも二〇年間は持続されたものと見られるが、そういうふうに見なした時、この事実は、『三国史記』と『日本書紀』に記録された斯麻王が百済王即位と時期上からもよく符合するのである。二つの史書には各々一年という時差はあるが斯麻王は五〇一年または五〇二年「倭国」から帰国し百済第二五代王についたのである(25)。
・・・上表文を見たって、そんな「事実」は、まったく読み取れもしませんが何か?
>彼には百済の痛みは自分自身と痛みとなり、また百済の不運は自身(倭国)の不運につながる、百済との一体感をもっているそういう人物であった。
それ、ただの主観的な感想に過ぎないし。
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五 倭王武、彼はだれなのか
――「武」は、少年「斯麻君」
上表文を通じて見た倭王「武」は、天皇系に属する雄略天皇とは無関係の間柄であり、むしろ百済王家系譜に属している人物であるという事実を知ることができた。彼には百済の痛みは自分自身と痛みとなり、また百済の不運は自身(倭国)の不運につながる、百済との一体感をもっているそういう人物であった。故に東アジアの激動期に「倭国」を統治したという「武」の正体を明かすということは、実に重大な課題であるといわざるをえない。
ところが、この時代の史料はきわめて制限されているため研究の苦しみは並々ならぬことであるが、幸いわれわれには、「武」が直接書いたという上表文があるため、これを土台に検討すれば遠からぬ将来「武」の正体が究明されるだろう。
第一、「武」は上表文で百済に対する高句麗の攻勢が絶頂にたっしたとき(四七五年頃)、自分の父兄が急に死去したため大軍の動員もできなかったといっている。ところが、その頃「倭」や百済で急死したと見なす王と王子は『三国史記』と『日本書紀』に記録されている百済蓋鹵王と大妃そして彼らの王子の悲惨な最期以外には見えないのである。
二つの史書によると、四七五年高句麗大軍の七日間にわたる攻勢のため、慰礼城が落ち、王(蓋鹵王)と大妃そして王子らは高句麗の将帥により阿且城で無残な殺害にあったという。したがって、「武」がいう「奄喪父兄」は、ほかでもない百済蓋鹵王とその王子の悲惨な最期を語るものと見なさなければならないし、「武」は直ちに殺された蓋鹵王の太子と見なすべきである(24)。
そして、彼は上表文に殺害された父王の喪を、天子の死に比ゆする「諒闇」(りょうあん)(諒闇は「崩」の字をもちいる場合にだけつかうことができる)と表記し父王に対する大王としての礼遇をおろそかにしなかった。特に、彼の心中深く据え付けていた高句麗に対する憎悪感と復讐心は、ほかならぬ父王の遺志というから彼が蓋鹵王の太子である「斯麻君」でなくてだれであろうか。
次に、『宋書』によると、四七八年(昇明二年)順帝は、「武」が自ら願った「安東大将軍・倭国王」を授けたといい、その翌年の四七九年には南斉の高帝が「鎮東大将軍・倭国王」を、そして二〇年後である五〇二年(天監元年)には梁武帝が「征東大将軍・倭国王」を各々武に昇爵除授したという。
このような官号の昇爵除授を通じて見た場合、「武」の倭王位は少なくとも二〇年間は持続されたものと見られるが、そういうふうに見なした時、この事実は、『三国史記』と『日本書紀』に記録された斯麻王が百済王即位と時期上からもよく符合するのである。二つの史書には各々一年という時差はあるが斯麻王は五〇一年または五〇二年「倭国」から帰国し百済第二五代王についたのである(25)。
これは メッセージ 552 (toapanlang さん)への返信です.
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