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百済武寧王について(16)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/23 23:49 投稿番号: [552 / 1474]
>その上「武」は急死した「父兄」の遺志だと言って、「敵である高句麗」を殲滅しようとするのを見ても、これは百済王家の系譜に属している人物でなければ、そういうふうに話すことはできないのである。

倭と高句麗が敵対できる状況にはない、と決め付けた上でのオハナシですな。(苦笑)

・・・・・・・

  しかし「武」は、上表文に自分自身の「父兄」は四七五年頃急に死んだと(奄喪父兄)記録しているが(20)、このように「武」の父王が四七五年頃急に死んだと言う事実は、雄略の天皇系では到底解明することができない問題である(21)。なぜかと言うと、雄略の父王である允恭天皇は四一一年に即位し、四二年間にわたり在位して四五三年すでに逝去したと『書紀』に記録されているからである。
  その上「武」は急死した「父兄」の遺志だと言って、「敵である高句麗」を殲滅しようとするのを見ても、これは百済王家の系譜に属している人物でなければ、そういうふうに話すことはできないのである。
  第三に、倭王「武」と雄略天皇はその没年が各々違うのである。『書紀』によると、雄略天皇は四一八年允恭天皇と忍坂大中姫のあいだから生まれたということで、四五七年に異腹兄である安康を退け王位につき、四七九年六二歳を一期に逝去したと言う。故に「通説」はこの上表文は雄略逝去一年前のものだと言っており、「武」も雄略と同じく次の年である四七九年には逝去したものと推定している(22)。
  それで通説は「武」が四七九年(建元元年)南斉高帝から授かった「鎮東大将軍」や、五〇二年(天監元年)梁武帝から授かった「征東将軍」は事実上当事者がいない架空の人物に与えた一つの儀礼的なものであると主張している(23)。しかし、そういう主張は根拠のないもので、「武」は四七八年以後も継続在位していたと見なければならない。
  その理由は、万一「通説」の見解のごとく「武」も四七九年に死亡したとするならば、彼の後代倭王は彼が誰であろうが、必ず新しい官号の要請があってしかるべきだが、そのような記録はどこからも探しだすことができないのである。雄略の逝去後、即位したという天皇系の清寧(四八〇−四八四年)と顕宗(四八六−四八七年)そして仁賢(四八八−四九八年)など諸天皇は、だれも皇帝に官号を要請あるいは授かったことがないのを推して見ても、「武」の王位は大きな変動なく約二〇年間、持続されたと見なすべきである。
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