れRe: 百済武寧王について(1) &(3)
投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/12/10 10:22 投稿番号: [415 / 1474]
>まず、「男弟王」が、百済王の弟(または弟筋)にあたることを文献学的に証明しなくてはならないのに、まず最初に「結論ありき」で、これまた朝鮮式のヘリクツですね。
彼の主張は「弟王」とある以上、斯麻の弟であるに違いない、というものです。そのためにこんな理屈まで持ち出してきました。
・・・・・・・
五 隅田八幡鏡は武寧王が継体天皇に下賜した鏡
2 斯麻は継体を「男弟王」と呼んだ
隅田八幡鏡は斯麻が「意紫沙加宮」にいた男弟王(男大迹王)に与えるため、開中費直(穢人)をして制作した数多くの白銅鏡の中の一つである。ここで斯麻は、この鏡を受領する対象の継体天皇を「男弟王」という名称で呼んだが、これは弟王の概念で、斯麻が彼の上王(兄王)でなければ呼べない名である。もし日本学界で主張するように、斯麻が男弟王の「臣下」のような存在であれば、彼はゆめゆめ「男弟王」という名で彼を呼ぶことはできなかっただろう。(18)
男弟王の男弟を単純な人名と見る解釈者もあるが、これは男弟の意義を縮小しようとする意図であり、男弟は文字通り弟の概念で、「下の男」を意味する古代の政治慣行に由来するものとみえる。つとに、景初三年(二三九年)の『魏志』倭人伝は、魏帝の使臣が見た「邪馬台国」の「女王」と「男弟」に対して「一人の女を王に奉戴しているが、彼女の名前は〈ヒミコ〉である。彼女は鬼に通じ、人を眩惑させる。年を取っているが嫁入らず、国事は「男弟」(オオト)があって輔佐している」と記述している。(19)
したがって、女王を補弼する「男弟」は政務や軍務のような全域を専任するようになり、女王はもっぱら宗務にたずさわって、「邪馬台国」の国事管理は女王と彼女を補弼する「男弟」が共同で管理する形態を維持したとみられる。
ところが、このような「男弟」の概念は、女王権の衰退とともに男弟王という実体として浮上したと推定される。したがって、男弟王は通常の太子や皇子のように皇統の承継を待つ「候補」でなく、また大多数の銘文解釈者らが見ているように、王統をもつ先王の単純な弟(皇弟)をいうのでもないようである。
男弟王自身はあくまでも独立した統治実体で、女王に仕える「男弟」のように、兄王のような大王に仕える弟王であり、彼らの関係は兄国(大王国)と弟国という秩序の中で維持される特殊な関係とみるべきである。(20) 『書紀』によると、男大迹王(男弟王)は五一八年、三回目に遷都した都邑を「弟国」と称したが、これは弟王の国として、兄王の国に対応する概念に受け入れられる。(21)
したがって、相手を弟王である男弟王と呼んでいる斯麻は、男弟王の兄王(大王)の位置にあるためにそれが可能であり、また、彼のみが銘文にある「大王年」の主人公になる資格があるのである。
注釈
(18)男弟王である継体の諱は『書紀』には「男大迹」、『古事記』には「袁本杼命」、そして『上宮記』は「伊自牟良君」(イシムラノキミ)と呼んでいるが、このような事実だけを見ても、継体天皇の「意紫沙加宮」朝廷は確かなものであるように見える。したがって、継体と男弟王は同一人物であるのが分明である。
(19)『プレジデント』一九八九年七月、七四ページ。
(20)つとに、『書紀』雄略紀には「吉備臣弟君」の活躍相に対して、彼が百済と交流しているというが、この「弟君」も兄君あるいは大君(百済大王)に対する概念で交流したとみえる。
(21)「弟国」の地名は『書紀』継体紀にたった一回しか見えていない。学界ではこの「弟国」(オタラ)の位置を京都市長岡京市乙訓寺付近であるというが、定かでない。
(続く)
彼の主張は「弟王」とある以上、斯麻の弟であるに違いない、というものです。そのためにこんな理屈まで持ち出してきました。
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五 隅田八幡鏡は武寧王が継体天皇に下賜した鏡
2 斯麻は継体を「男弟王」と呼んだ
隅田八幡鏡は斯麻が「意紫沙加宮」にいた男弟王(男大迹王)に与えるため、開中費直(穢人)をして制作した数多くの白銅鏡の中の一つである。ここで斯麻は、この鏡を受領する対象の継体天皇を「男弟王」という名称で呼んだが、これは弟王の概念で、斯麻が彼の上王(兄王)でなければ呼べない名である。もし日本学界で主張するように、斯麻が男弟王の「臣下」のような存在であれば、彼はゆめゆめ「男弟王」という名で彼を呼ぶことはできなかっただろう。(18)
男弟王の男弟を単純な人名と見る解釈者もあるが、これは男弟の意義を縮小しようとする意図であり、男弟は文字通り弟の概念で、「下の男」を意味する古代の政治慣行に由来するものとみえる。つとに、景初三年(二三九年)の『魏志』倭人伝は、魏帝の使臣が見た「邪馬台国」の「女王」と「男弟」に対して「一人の女を王に奉戴しているが、彼女の名前は〈ヒミコ〉である。彼女は鬼に通じ、人を眩惑させる。年を取っているが嫁入らず、国事は「男弟」(オオト)があって輔佐している」と記述している。(19)
したがって、女王を補弼する「男弟」は政務や軍務のような全域を専任するようになり、女王はもっぱら宗務にたずさわって、「邪馬台国」の国事管理は女王と彼女を補弼する「男弟」が共同で管理する形態を維持したとみられる。
ところが、このような「男弟」の概念は、女王権の衰退とともに男弟王という実体として浮上したと推定される。したがって、男弟王は通常の太子や皇子のように皇統の承継を待つ「候補」でなく、また大多数の銘文解釈者らが見ているように、王統をもつ先王の単純な弟(皇弟)をいうのでもないようである。
男弟王自身はあくまでも独立した統治実体で、女王に仕える「男弟」のように、兄王のような大王に仕える弟王であり、彼らの関係は兄国(大王国)と弟国という秩序の中で維持される特殊な関係とみるべきである。(20) 『書紀』によると、男大迹王(男弟王)は五一八年、三回目に遷都した都邑を「弟国」と称したが、これは弟王の国として、兄王の国に対応する概念に受け入れられる。(21)
したがって、相手を弟王である男弟王と呼んでいる斯麻は、男弟王の兄王(大王)の位置にあるためにそれが可能であり、また、彼のみが銘文にある「大王年」の主人公になる資格があるのである。
注釈
(18)男弟王である継体の諱は『書紀』には「男大迹」、『古事記』には「袁本杼命」、そして『上宮記』は「伊自牟良君」(イシムラノキミ)と呼んでいるが、このような事実だけを見ても、継体天皇の「意紫沙加宮」朝廷は確かなものであるように見える。したがって、継体と男弟王は同一人物であるのが分明である。
(19)『プレジデント』一九八九年七月、七四ページ。
(20)つとに、『書紀』雄略紀には「吉備臣弟君」の活躍相に対して、彼が百済と交流しているというが、この「弟君」も兄君あるいは大君(百済大王)に対する概念で交流したとみえる。
(21)「弟国」の地名は『書紀』継体紀にたった一回しか見えていない。学界ではこの「弟国」(オタラ)の位置を京都市長岡京市乙訓寺付近であるというが、定かでない。
(続く)
これは メッセージ 414 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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