大韓帝国は自主的な改革国家だった
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/09/03 21:47 投稿番号: [8160 / 30895]
下関条約で独立した国がなに言ってるだ?
あははは、崩壊寸前だったくせに、大韓帝国が自主的改革国家だったらなんで日本に併合してくれと言ってきたんだよ。
朝鮮人は歴史を知らな杉!
これが噂のこうあるべきと言う脳内歴史です。
>大韓帝国が皇室財政を拡充し、富国強兵と産業振興のために努力を傾けたとしている。
根拠は奴らの脳内にあるんですね。
資料はありませんのであしからず。
夢のような歴史を胸のうちに抱いたまま永久に眠ってて下さい。
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「大韓帝国は自主的な改革国家だった」
【新刊】韓永愚ほか著『大韓帝国は近代国家なのか』(青い歴史社)
ソウル市庁前の広場は、いつ誰が作ったのだろうか。
元々景福宮から南大門に行くためには、光化門交差点で鐘路方面へ折れ、広通橋を渡らなければならなかった。これを改めて徳寿宮と円丘壇を都市の中心に据え、放射線状の道路網を構築しようとしたのは大韓帝国の新しい都市計画だった。この計画に従い、初めて現在の市庁前広場と太平路が造られたのだ。
「大韓帝国は近代国家なのか」という同書の書名にもなっている問いかけに対する答えは、「その通りだ」というものだ。国民国家、自主独立国家、産業化、身分制の崩壊、自由平等思想などが近代の基準ならば、1897年に誕生した大韓帝国は、その成熟度に欠けていたとはいえ、確かに近代国家であったというのだ。
また、この問いかけは、近代・前近代の問題を越え、伝統性の問題とも結びついている。翰林大の韓国学研究所が企画した同書は「大韓民国は大韓民国臨時政府の法統を受け継いだ国家であり、臨時政府は大韓帝国の歴史的正統を引き継いでいるので、国号に関する限り、大韓民国は大韓帝国の延長線上にある」と主張している。大韓帝国を根本的に否定することは、ある面では大韓民国を否定することにまでつながるのだ。
学界にこれといった論争がない現状にもかかわらず、「大韓帝国」をめぐる論争は2004年から非常に熾烈に展開された。大韓帝国の性格の究明こそが、韓国近現代史のホットイシューである内在的発展論と植民地近代化論の対決に密接な関係を有しているためだ。
大韓帝国は朝鮮王朝自らの発展の結果として誕生した近代的改革国家なのか、さもなければ腐敗し堕落した封建的旧体制に過ぎなかったのか。前者の主張を裏付けるための実証的な作業の結晶がまさに同書なのだ。
「”旧本新参”を掲げ、伝統と現代を折衷する方向へと韓国式近代化を推進した国家が大韓帝国だった」とする翰林大の韓永愚(ハン・ヨンウ)特任教授の基調論文に続き、韓国産業技術大の徐栄姫(ソ・ヨンヒ)教授は、大韓帝国の勤王勢力は下層社会から成長した近代的実務官僚だったと分析している。
また、高宗は儒教的道学君主ではなく、西洋絶対王政期の開明君主に近かったとしている。昌原大のイ・ユンサン教授は、大韓帝国が皇室財政を拡充し、富国強兵と産業振興のために努力を傾けたとしている。
一方、「伝統と近代」、「守旧と改革」などの二分法的なアプローチから脱却してこそ、大韓帝国の実像が見えるという見解もある。ソウル大社会発展研究所のカン・サンギュ研究員は、当時の大韓帝国は「異質な文明間の緊張した出会い」という新たなパラダイムの中にあり、その中で真の自主独立国家を目指していたと見ている。
以上のような大韓帝国に対する肯定的再解釈は、確かに前近代と近代の歴史が断絶ではなく、延長線上にあったことを認識する上で助けになる。英祖・正祖以来の「蕩平君主像」が高宗の皇帝権を裏付けるモデルになったという見解に至っては、内在的発展論の絶頂を見る思いさえする。
しかし、「旧本新参」に対しては、「冠を被って自転車に乗る(不釣り合いなこと)」ようないかがわしい折衷であったという疑いは捨てきれない。また、皇室財政のうち、途方もない資金が皇帝に尊号を捧げたり、宮殿を修築したりする虚飾に使われていた以上、その復権の限界も明らかではないだろうか。
朝鮮日報
あははは、崩壊寸前だったくせに、大韓帝国が自主的改革国家だったらなんで日本に併合してくれと言ってきたんだよ。
朝鮮人は歴史を知らな杉!
これが噂のこうあるべきと言う脳内歴史です。
>大韓帝国が皇室財政を拡充し、富国強兵と産業振興のために努力を傾けたとしている。
根拠は奴らの脳内にあるんですね。
資料はありませんのであしからず。
夢のような歴史を胸のうちに抱いたまま永久に眠ってて下さい。
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「大韓帝国は自主的な改革国家だった」
【新刊】韓永愚ほか著『大韓帝国は近代国家なのか』(青い歴史社)
ソウル市庁前の広場は、いつ誰が作ったのだろうか。
元々景福宮から南大門に行くためには、光化門交差点で鐘路方面へ折れ、広通橋を渡らなければならなかった。これを改めて徳寿宮と円丘壇を都市の中心に据え、放射線状の道路網を構築しようとしたのは大韓帝国の新しい都市計画だった。この計画に従い、初めて現在の市庁前広場と太平路が造られたのだ。
「大韓帝国は近代国家なのか」という同書の書名にもなっている問いかけに対する答えは、「その通りだ」というものだ。国民国家、自主独立国家、産業化、身分制の崩壊、自由平等思想などが近代の基準ならば、1897年に誕生した大韓帝国は、その成熟度に欠けていたとはいえ、確かに近代国家であったというのだ。
また、この問いかけは、近代・前近代の問題を越え、伝統性の問題とも結びついている。翰林大の韓国学研究所が企画した同書は「大韓民国は大韓民国臨時政府の法統を受け継いだ国家であり、臨時政府は大韓帝国の歴史的正統を引き継いでいるので、国号に関する限り、大韓民国は大韓帝国の延長線上にある」と主張している。大韓帝国を根本的に否定することは、ある面では大韓民国を否定することにまでつながるのだ。
学界にこれといった論争がない現状にもかかわらず、「大韓帝国」をめぐる論争は2004年から非常に熾烈に展開された。大韓帝国の性格の究明こそが、韓国近現代史のホットイシューである内在的発展論と植民地近代化論の対決に密接な関係を有しているためだ。
大韓帝国は朝鮮王朝自らの発展の結果として誕生した近代的改革国家なのか、さもなければ腐敗し堕落した封建的旧体制に過ぎなかったのか。前者の主張を裏付けるための実証的な作業の結晶がまさに同書なのだ。
「”旧本新参”を掲げ、伝統と現代を折衷する方向へと韓国式近代化を推進した国家が大韓帝国だった」とする翰林大の韓永愚(ハン・ヨンウ)特任教授の基調論文に続き、韓国産業技術大の徐栄姫(ソ・ヨンヒ)教授は、大韓帝国の勤王勢力は下層社会から成長した近代的実務官僚だったと分析している。
また、高宗は儒教的道学君主ではなく、西洋絶対王政期の開明君主に近かったとしている。昌原大のイ・ユンサン教授は、大韓帝国が皇室財政を拡充し、富国強兵と産業振興のために努力を傾けたとしている。
一方、「伝統と近代」、「守旧と改革」などの二分法的なアプローチから脱却してこそ、大韓帝国の実像が見えるという見解もある。ソウル大社会発展研究所のカン・サンギュ研究員は、当時の大韓帝国は「異質な文明間の緊張した出会い」という新たなパラダイムの中にあり、その中で真の自主独立国家を目指していたと見ている。
以上のような大韓帝国に対する肯定的再解釈は、確かに前近代と近代の歴史が断絶ではなく、延長線上にあったことを認識する上で助けになる。英祖・正祖以来の「蕩平君主像」が高宗の皇帝権を裏付けるモデルになったという見解に至っては、内在的発展論の絶頂を見る思いさえする。
しかし、「旧本新参」に対しては、「冠を被って自転車に乗る(不釣り合いなこと)」ようないかがわしい折衷であったという疑いは捨てきれない。また、皇室財政のうち、途方もない資金が皇帝に尊号を捧げたり、宮殿を修築したりする虚飾に使われていた以上、その復権の限界も明らかではないだろうか。
朝鮮日報
これは メッセージ 1 (greatjp22 さん)への返信です.
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