Re: サムライさんに質問<検証2
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/07/22 01:08 投稿番号: [7566 / 30895]
ビルマ(緬甸)方面軍(通称号:森)の隷下部隊は以下の通りです。
直轄部隊
第2師団(仙台)
第49師団(京城)
第28軍
第54師団(姫路)
第55師団(善通寺)
第33軍
第18師団(久留米)
第56師団(久留米)
第15軍
第15師団(敦賀)
第31師団(甲府)
第33師団(宇都宮)
第53師団(京都・インパール後)
関係のありそうなのは、第49師団(京城)ですが、この師団の編制は昭和19年1月6日。
すると入隊は昭和19年4月以降と言う事になり(兵卒は専門術科学校への入校以外、原隊を変わることは『絶対に』有り得ません)
「平壌6ヶ月、ソウル6ヶ月」の訓練、は崩壊します。
*時期的に、断作戦(昭和19年6月末〜昭和20年1月末)の時期に投入されたと記憶します。
イワラジ会戦のメイクテーラ作戦(昭和20年2月末〜4月)で、英軍第4軍団・第33軍団と交戦・壊滅しています。
>ビルマでは、朝鮮兵たちが最前線に出て囮になって英軍をひきつけ(「挺身隊」と称したそうですが)、それを本隊が撃破する作戦となったそうです。で、最前線へ駆り立てられたものの、英軍が作戦を見破って彼らをほったらかして本隊を撃破したため助かった、というのです。(部隊名や詳細な地名、年月日については記していません)
「英軍が『本隊を撃破』した」と言うからには。
本隊は最低限大隊以上、普通は連隊以上(でないと、「挺身隊」など編制できませんから)
時期的には連合軍の反抗が開始された昭和18年末の第1次アキャブ作戦以降でしょうけど。
第1次アキャブ作戦以降の日本軍の「引き分け」「負け戦」は・・・
・第2次アキャブ作戦(イ号作戦)昭和19年2月〜
・インパール作戦
昭和19年3月〜7月
・フーコン作戦
昭和19年6月末
・断作戦
昭和19年6月末〜昭和20年1月末
・盤作戦(イラワジ会戦)と完作戦
昭和20年1月初旬〜3月末
・ビルマ戦線の総退却
昭和20年4月〜終戦
いずれも、朝鮮系の徴兵兵卒は参加していないんですよね・・・
(編制地・補充地とも、内地の部隊が殆ど。第49師団も『内地日本人』部隊)
少数の朝鮮系志願兵がいたかどうかまでは、確認できませんが。
その連中をかき集めても、連隊・大隊規模では1個小隊(30〜50人)も編制できないんじゃないでしょうか。
精々、1個分隊(10人弱)程度でしょう。
「挺身隊」ではなく、将校に率いられた「将校斥候(長距離偵察部隊)」程度です。
これは メッセージ 7560 (samurai_06_japan さん)への返信です.
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