在日朝鮮人全ての鑑である
投稿者: greatjp22 投稿日時: 2011/09/02 23:57 投稿番号: [26073 / 30895]
年金をもらえないから北朝鮮に帰国なんて、在日の鑑のような人ですね。全ての在日朝鮮人は是非この人を見習ってもらいたい。
日本の年金は日本国民の為の者であって帰化もしないで外国人として暮らしている人の分まで払う義務などないのですから。
ニュースUP:在日女性、涙の旅立ち=京都支局・古屋敷尚子
<おおさか発・プラスアルファ>
◇77年の営み、認めてくれなかった日本
90歳を迎えた1人の在日コリアンの女性が今月上旬、77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った。国籍を理由に老齢年金を受給されないのは差別だとして国を訴え、敗訴した後のことだ。支援団体によると、大阪、京都、福岡の3訴訟の原告計20人のうち帰国した人は初めてという。女性の最後の選択への思いとは−−。
■「別れはつらい」
女性は京都市南区に住んでいた高五生(コオセン)さん。離日を2日後に控えた今月8日、利用していたデイサービス施設で、親しい友人やスタッフら数人と別れを惜しんだ。利用者には在日コリアンが多く、「帰りたくても帰れん人もいるから」と、にぎやかな催しは高さんが拒んだ。高さんと友人たちは「いつまでも元気でね」と声をかけ、抱きしめ合った。
高さんは当日の10日朝、親類に付き添われて関西国際空港に向かった。韓国・済州島出身だが、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で暮らす息子家族を頼って中国経由で北朝鮮に入国する。身の回りの物だけを詰めた小さな手荷物に家族や友人らの写真数枚を入れた。「みんなにこの年までようしてもらって。私の周りの日本人はみんなええ人ばかり。別れるのはつらい……。もう日本には戻れんから」。小さくつぶやき、目に涙をためた。
済州島で5人姉妹の長女として生まれ、13歳の頃に大阪で暮らす父を頼って来日した高さんは、「差別なんて受けたことはない」と言い切る。言葉通り受け取ってよいのかは分からないが、周囲とはよい関係を築いてきたようだ。
15歳年上の朝鮮人と18歳で結婚した後、職を転々としながらたどり着いた京都・西陣では、日本人夫婦宅を間借りした。来日前に学んだカタカナで筆談した夫婦について、「奥さんに頼んで浴衣を着せてもろうて……」と懐かしそうに話す。
戦後すぐ帰国する機会もあった。日本の敗戦で朝鮮が独立を回復、「すぐにでも帰れると思った。仲間もバンザイって大いに沸いた」。気持ちは高ぶった。父親や、高さんとともに来日した妹は帰国を選んだ。しかし、戦争中に始めた鉄回収業が軌道に乗り始め、食べるに困らない稼ぎがあった。朝鮮半島に戻っても生活基盤はない。ためらい、決断できなかった。その後も、朝鮮へ帰る人を乗せた浮島丸沈没事件や済州島の政情不安などを聞く度、「様子をみて良かった」と自分に言い聞かせた。
■無年金への怒り
迷った末とどまった日本は、安住の地にならなかった。
戦後、夫は民族活動に没頭し、家族の生活は高さんの肩にかかった。鉄回収業自体は順調で、職人30人を雇っていた時期もある。だが、「商売が軌道に乗ると、行政から『立ち退け』って言われた。何度も何度もや」。結局、立ち退きに応じたことが2、3度あった。
強硬な姿勢をのぞかせた役所。80歳を超えて、その行政、国と法廷で正面から闘うことになる。04年に無年金訴訟に参加した。「どうせ(裁判で)言っても(年金は)もらわれへんやろ。それでも、苦しい時代を日本で生き抜いたことを国に認めてほしかった」と言う。息子は朝鮮高級学校3年の時、制止を振り切って北朝鮮に渡っていた。約40年前に夫に先立たれてからは1人暮らしだ。それでも70歳を過ぎて生活保護を受け、生活は成り立っていた。参加を決意したのは同年代の在日コリアンの困窮を知っていたからだ。「お風呂に行くにも子供にお金をもらわなあかん。長年暮らして税金払うて、どうしてそんな生活をせなあかんのか」
07年2月の判決日。「小さな期待」が心の隅にあった。しかし、京都地裁は国の裁量権の範囲内とし、訴えを退けた。「腹が立ってたまらんかった。全く認めてくれないなんて」。高裁でも敗訴し、09年2月に最高裁も1、2審を支持。約4年にわたる闘いは終わった。
■息子を頼って
いま息子は60歳を超えた。北朝鮮には高さんの孫が3人、ひ孫も3人おり、数年に1度は会いに行く。3年ぶりに訪ねた今年6月、直前に自転車で転んで車椅子に乗って来た高さんを見て、息子は「面倒見るからこっちに来いよ」と言った。衰えは自覚している。帰るならこれが最後の機会だと思った。
つづく
日本の年金は日本国民の為の者であって帰化もしないで外国人として暮らしている人の分まで払う義務などないのですから。
ニュースUP:在日女性、涙の旅立ち=京都支局・古屋敷尚子
<おおさか発・プラスアルファ>
◇77年の営み、認めてくれなかった日本
90歳を迎えた1人の在日コリアンの女性が今月上旬、77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った。国籍を理由に老齢年金を受給されないのは差別だとして国を訴え、敗訴した後のことだ。支援団体によると、大阪、京都、福岡の3訴訟の原告計20人のうち帰国した人は初めてという。女性の最後の選択への思いとは−−。
■「別れはつらい」
女性は京都市南区に住んでいた高五生(コオセン)さん。離日を2日後に控えた今月8日、利用していたデイサービス施設で、親しい友人やスタッフら数人と別れを惜しんだ。利用者には在日コリアンが多く、「帰りたくても帰れん人もいるから」と、にぎやかな催しは高さんが拒んだ。高さんと友人たちは「いつまでも元気でね」と声をかけ、抱きしめ合った。
高さんは当日の10日朝、親類に付き添われて関西国際空港に向かった。韓国・済州島出身だが、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で暮らす息子家族を頼って中国経由で北朝鮮に入国する。身の回りの物だけを詰めた小さな手荷物に家族や友人らの写真数枚を入れた。「みんなにこの年までようしてもらって。私の周りの日本人はみんなええ人ばかり。別れるのはつらい……。もう日本には戻れんから」。小さくつぶやき、目に涙をためた。
済州島で5人姉妹の長女として生まれ、13歳の頃に大阪で暮らす父を頼って来日した高さんは、「差別なんて受けたことはない」と言い切る。言葉通り受け取ってよいのかは分からないが、周囲とはよい関係を築いてきたようだ。
15歳年上の朝鮮人と18歳で結婚した後、職を転々としながらたどり着いた京都・西陣では、日本人夫婦宅を間借りした。来日前に学んだカタカナで筆談した夫婦について、「奥さんに頼んで浴衣を着せてもろうて……」と懐かしそうに話す。
戦後すぐ帰国する機会もあった。日本の敗戦で朝鮮が独立を回復、「すぐにでも帰れると思った。仲間もバンザイって大いに沸いた」。気持ちは高ぶった。父親や、高さんとともに来日した妹は帰国を選んだ。しかし、戦争中に始めた鉄回収業が軌道に乗り始め、食べるに困らない稼ぎがあった。朝鮮半島に戻っても生活基盤はない。ためらい、決断できなかった。その後も、朝鮮へ帰る人を乗せた浮島丸沈没事件や済州島の政情不安などを聞く度、「様子をみて良かった」と自分に言い聞かせた。
■無年金への怒り
迷った末とどまった日本は、安住の地にならなかった。
戦後、夫は民族活動に没頭し、家族の生活は高さんの肩にかかった。鉄回収業自体は順調で、職人30人を雇っていた時期もある。だが、「商売が軌道に乗ると、行政から『立ち退け』って言われた。何度も何度もや」。結局、立ち退きに応じたことが2、3度あった。
強硬な姿勢をのぞかせた役所。80歳を超えて、その行政、国と法廷で正面から闘うことになる。04年に無年金訴訟に参加した。「どうせ(裁判で)言っても(年金は)もらわれへんやろ。それでも、苦しい時代を日本で生き抜いたことを国に認めてほしかった」と言う。息子は朝鮮高級学校3年の時、制止を振り切って北朝鮮に渡っていた。約40年前に夫に先立たれてからは1人暮らしだ。それでも70歳を過ぎて生活保護を受け、生活は成り立っていた。参加を決意したのは同年代の在日コリアンの困窮を知っていたからだ。「お風呂に行くにも子供にお金をもらわなあかん。長年暮らして税金払うて、どうしてそんな生活をせなあかんのか」
07年2月の判決日。「小さな期待」が心の隅にあった。しかし、京都地裁は国の裁量権の範囲内とし、訴えを退けた。「腹が立ってたまらんかった。全く認めてくれないなんて」。高裁でも敗訴し、09年2月に最高裁も1、2審を支持。約4年にわたる闘いは終わった。
■息子を頼って
いま息子は60歳を超えた。北朝鮮には高さんの孫が3人、ひ孫も3人おり、数年に1度は会いに行く。3年ぶりに訪ねた今年6月、直前に自転車で転んで車椅子に乗って来た高さんを見て、息子は「面倒見るからこっちに来いよ」と言った。衰えは自覚している。帰るならこれが最後の機会だと思った。
つづく
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