続 回想の1988年「北京Xマス」
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2009/12/25 09:44 投稿番号: [1653 / 3699]
当時の私は、北京大学に高級進修生として留学していた。ご存知のとおり、北京大学はもと燕京大学の跡地を襲って円明園近傍にあり、北京城内から20キロは離れている。外郭道路もまだ三環路までしかできておらず、周囲には田圃まで見られる、まったくの郊外風景であった。裏門から出れば埃っぽい小村があり、真冬の昼飯時、そこで労働者と混じって熱々の水餃子をかき込んだその味も、なお口中にありありと甦る。
そうした生活の中、私の楽しみは、日本人学校で学ぶお子さんへの家庭教師のアルバイトで、毎週企業駐在員の御宅に伺って日本食をいただくこと、さらにそうして得た「外幣」でもって北京市内の「外資系」ホテルにたまに立ち寄り、わずかに「西側」気分を味わうことだった。
その頃の北京は、夜の8時ともなるともう「終バス」となり、西単や王府井といった盛り場も店はみな閉めて真っ暗、「夜市」始めましたとかいうので喜んで行ってみると、裸電球の下、帆布の小屋掛で「牛仔●(●は「衣へん」に「庫」)」を売る店がちらほら、などという状態だった(だから福州に行くと夜店の多さに感嘆し、広州に行くと「街でデニッシュペストリーを売っている!」と驚嘆したものだ。そのうえ香港まで出るともう……)。
だからもちろん、巷には「クリスマス」などというものは存在せず、大学の先生たちですら、日本や欧米には「聖誕節」というものがあるのだそうだね、くらいの程度で、ましてやツリーだのイルミネーションだのという華やいだ雰囲気などは絶無だ。
そんな寒い年末(厳密に言うと「年末」ですらない、日常生活は「農暦」で動くから)の中、唯一輝かしい赤や緑の灯がともり、スーツだのドレスだのをビシッと着こなした欧米人の家族連れが集まっているのが、「外資系」ホテルのクリスマス・イブだったのだ。
足を踏み入れるとそこだけは別世界で、ロビーには背の高いクリスマスツリーが置かれ、ティーラウンジでは今しもインターナショナル・スクールの子どもたちによるクリスマス・キャロルが始まろうとしている。綺麗な服を着た親たちは、最新式のカメラやビデオで、それを撮影する。私はラウンジの片隅に腰を下ろし、「キャフェ・キャルヴァ」(エスプレッソとカルバドスを一度にたのむ)を注文して、束の間の西欧感覚を楽しんだ。
この話にはおまけがあって、その前だったか後だったか、もう判然としないのだが、私は「民族系」ホテルにも寄っている。そこでも実は「クリスマスの催し」があって、やはりロビーではクリスマス・キャロルが歌われた。ただしその場に立っていたのは頬紅をつけた中国の子どもたちで、取っておきのよそ行きと思しきセーターやスカート、そしてズボンを身に纏い、完璧な英語とメロディ、ハーモニー、そして身振りと笑顔で合唱を披露してくれた。たぶん北京の選り抜きの小学校の、その中でもいちばん優秀な児童、そしておそらくは幹部の子女たちだったのだろう。だがロビーにはあまり人影もなく、白々と明るく照らし出されたフロアは、かえって寒々しい印象を与えた。
かれらかの女らには、自分たちが何をやっているのかすら分からない。ただ念入りに教え込まれたとおり、宿泊している「外賓」のために、しかしひたすらに「服務」したのだろう。その姿はだから、むしろ痛々しくさえ映ったのである。
私は対照的な二つの光景をしっかりと目に焼き付け、もうバスもないので、その日ばかりはタクシーを奮発して、夜も更けたはるか郊外の北京大学まで戻ったのだった。
これが今からわずか20年前、だが昔日の感のある、クリスマス・イブの北京である。そのときの子どもたちは、それからわずか半年後の天安門事件をいかに記憶し、それに引き続く経済改革と開放の年月をどうして過ごし、北京五輪を経験し、そして二十代半ばの青年となった現在、はたしてどんな価値観を持って、どのような環境で暮らしているのであろうか。
因果は廻る。昭和31年生まれの私には、表参道のキディランドに鮮やかな色の外車で乗りつけていた豊かで贅沢なアメリカ人たちに目を見張っていた自分が、1988年の北京でかれらと同じようなことをしたのだなという思いとともに重ね合わされるのだ。そして、次の因果は……?
そうした生活の中、私の楽しみは、日本人学校で学ぶお子さんへの家庭教師のアルバイトで、毎週企業駐在員の御宅に伺って日本食をいただくこと、さらにそうして得た「外幣」でもって北京市内の「外資系」ホテルにたまに立ち寄り、わずかに「西側」気分を味わうことだった。
その頃の北京は、夜の8時ともなるともう「終バス」となり、西単や王府井といった盛り場も店はみな閉めて真っ暗、「夜市」始めましたとかいうので喜んで行ってみると、裸電球の下、帆布の小屋掛で「牛仔●(●は「衣へん」に「庫」)」を売る店がちらほら、などという状態だった(だから福州に行くと夜店の多さに感嘆し、広州に行くと「街でデニッシュペストリーを売っている!」と驚嘆したものだ。そのうえ香港まで出るともう……)。
だからもちろん、巷には「クリスマス」などというものは存在せず、大学の先生たちですら、日本や欧米には「聖誕節」というものがあるのだそうだね、くらいの程度で、ましてやツリーだのイルミネーションだのという華やいだ雰囲気などは絶無だ。
そんな寒い年末(厳密に言うと「年末」ですらない、日常生活は「農暦」で動くから)の中、唯一輝かしい赤や緑の灯がともり、スーツだのドレスだのをビシッと着こなした欧米人の家族連れが集まっているのが、「外資系」ホテルのクリスマス・イブだったのだ。
足を踏み入れるとそこだけは別世界で、ロビーには背の高いクリスマスツリーが置かれ、ティーラウンジでは今しもインターナショナル・スクールの子どもたちによるクリスマス・キャロルが始まろうとしている。綺麗な服を着た親たちは、最新式のカメラやビデオで、それを撮影する。私はラウンジの片隅に腰を下ろし、「キャフェ・キャルヴァ」(エスプレッソとカルバドスを一度にたのむ)を注文して、束の間の西欧感覚を楽しんだ。
この話にはおまけがあって、その前だったか後だったか、もう判然としないのだが、私は「民族系」ホテルにも寄っている。そこでも実は「クリスマスの催し」があって、やはりロビーではクリスマス・キャロルが歌われた。ただしその場に立っていたのは頬紅をつけた中国の子どもたちで、取っておきのよそ行きと思しきセーターやスカート、そしてズボンを身に纏い、完璧な英語とメロディ、ハーモニー、そして身振りと笑顔で合唱を披露してくれた。たぶん北京の選り抜きの小学校の、その中でもいちばん優秀な児童、そしておそらくは幹部の子女たちだったのだろう。だがロビーにはあまり人影もなく、白々と明るく照らし出されたフロアは、かえって寒々しい印象を与えた。
かれらかの女らには、自分たちが何をやっているのかすら分からない。ただ念入りに教え込まれたとおり、宿泊している「外賓」のために、しかしひたすらに「服務」したのだろう。その姿はだから、むしろ痛々しくさえ映ったのである。
私は対照的な二つの光景をしっかりと目に焼き付け、もうバスもないので、その日ばかりはタクシーを奮発して、夜も更けたはるか郊外の北京大学まで戻ったのだった。
これが今からわずか20年前、だが昔日の感のある、クリスマス・イブの北京である。そのときの子どもたちは、それからわずか半年後の天安門事件をいかに記憶し、それに引き続く経済改革と開放の年月をどうして過ごし、北京五輪を経験し、そして二十代半ばの青年となった現在、はたしてどんな価値観を持って、どのような環境で暮らしているのであろうか。
因果は廻る。昭和31年生まれの私には、表参道のキディランドに鮮やかな色の外車で乗りつけていた豊かで贅沢なアメリカ人たちに目を見張っていた自分が、1988年の北京でかれらと同じようなことをしたのだなという思いとともに重ね合わされるのだ。そして、次の因果は……?
これは メッセージ 1652 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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