ハルビン駅に安重根義士記念碑?
投稿者: doronpa95 投稿日時: 2013/01/11 23:18 投稿番号: [4075 / 4080]
筆者が1980年代後半から中国を往来しながら最も行きたかった地域が黒龍江省ハルビンだった。そのハルビン駅で安重根義士が伊藤博文を狙撃した現場を必ず見たかった。だが、東北3省の中でも地域的に最も離れているうえに旅行インフラもよく開発されていないからか、公務や学会などで中国に行くたびに訪問日程をとれずにいた。
この冬、それも最も寒い時期を選んでハルビンに行ってきた。本当に多くの辛酸と苦難の末、ハルビン駅プラットホームのその場所に到達できた。酷寒の中、最善をつくして案内してくれた知人がいなければ思いもよらないことだった。(中略:たどり着くまでの苦労話)
何もなかった。簡単な立看板はおろか、ありふれた案内文の一行も見られなかった。ただし、プラットホームの床に三角形のタイルが狙撃者の位置と狙撃方向を、それから5m程の距離に四角形のタイルがあって標的が立った位置を暗示していた。本当に虚しかった。
中国という国が自国の領土内の他国の英雄的人物を賛えるのにケチだとは言え、これは我が国の品格や外交的力量と関連していると見られる。上海虹口公園にはそれでも尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の行跡が見られる記念施設が確保されており、訪問客らの注目を集める。ところが中国の中央政府もハルビン市も、この場所には何の努力も試みもなかったのか、ずっと胸が辛かった。
安重根義士の殉国精神と犠牲が私たちの歴史で発する燦然たる光輝に照らせば、これはあまりにも悲しいことと見なければならない。さらに光復(解放)後の韓国政府は自分の遺体を祖国に移葬して欲しいという遺志を尊重できず、今、義士の遺骨は流失して探す道もない。その子孫は政府の支援や保護を受けられず苦労した。
安義士が1909年、伊藤博文を狙撃し、その場で即死させた日は10月26日だ。伊藤は日本近代化改革の明治維新の時、権力の座に上がった人物で、朝鮮合併の責任を負った天皇特派全権大使であった。彼は高宗(コジョン)を脅して大臣たちを脅迫し強制的に乙巳条約を締結した主役だ。伊藤を処断したことは世界各国に大韓帝国の存在と民族的抗日抵抗意志を明らかにした快挙であった。
伊藤は合併に有利な国際的環境を作るためハルビンを訪れたところだった。安義士は狙撃後、自首し、自分は韓国義軍の参謀中将の資格で祖国の独立と東洋の平和のために戦争を遂行したことや万国公法、すなわち国際法により戦時捕虜として扱うことを要求した。1910年2月14日、中国麗水(ヨス)順天(スンチョン)で死刑宣告を受けたが、最後まで悠然とした姿勢を崩さなかった。
伊藤に対し明成(ミョンソン)王后殺害と高宗皇帝廃位など15種の罪状を主張したのも驚くべき気概に違いなかった。国内に安重根義士崇慕会や安重根記念事業会などが結成され活動しており、北朝鮮では「安重根、伊藤博文を撃つ」という作品の公演や映画化もされた。ハルビン駅の遺跡化と奉賛のために北朝鮮と協力する方法を探すこともできるだろう。
今年2月14日には頼むから商魂ばかりのバレンタインデーのむなしい風に浸らず、安義士の死刑宣告のことを記憶する人々が多くなったら良いと思う。
ソース:韓国日報(韓国語) [文化散歩/1月12日]ハルビン駅縁の安重根義士
h ttp://news.hankooki.com/lpage/opinion/201301/h20130111210312121770.htm
要約すると・・・
「宗主国には属国に対する愛情はないニカ?」
この冬、それも最も寒い時期を選んでハルビンに行ってきた。本当に多くの辛酸と苦難の末、ハルビン駅プラットホームのその場所に到達できた。酷寒の中、最善をつくして案内してくれた知人がいなければ思いもよらないことだった。(中略:たどり着くまでの苦労話)
何もなかった。簡単な立看板はおろか、ありふれた案内文の一行も見られなかった。ただし、プラットホームの床に三角形のタイルが狙撃者の位置と狙撃方向を、それから5m程の距離に四角形のタイルがあって標的が立った位置を暗示していた。本当に虚しかった。
中国という国が自国の領土内の他国の英雄的人物を賛えるのにケチだとは言え、これは我が国の品格や外交的力量と関連していると見られる。上海虹口公園にはそれでも尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の行跡が見られる記念施設が確保されており、訪問客らの注目を集める。ところが中国の中央政府もハルビン市も、この場所には何の努力も試みもなかったのか、ずっと胸が辛かった。
安重根義士の殉国精神と犠牲が私たちの歴史で発する燦然たる光輝に照らせば、これはあまりにも悲しいことと見なければならない。さらに光復(解放)後の韓国政府は自分の遺体を祖国に移葬して欲しいという遺志を尊重できず、今、義士の遺骨は流失して探す道もない。その子孫は政府の支援や保護を受けられず苦労した。
安義士が1909年、伊藤博文を狙撃し、その場で即死させた日は10月26日だ。伊藤は日本近代化改革の明治維新の時、権力の座に上がった人物で、朝鮮合併の責任を負った天皇特派全権大使であった。彼は高宗(コジョン)を脅して大臣たちを脅迫し強制的に乙巳条約を締結した主役だ。伊藤を処断したことは世界各国に大韓帝国の存在と民族的抗日抵抗意志を明らかにした快挙であった。
伊藤は合併に有利な国際的環境を作るためハルビンを訪れたところだった。安義士は狙撃後、自首し、自分は韓国義軍の参謀中将の資格で祖国の独立と東洋の平和のために戦争を遂行したことや万国公法、すなわち国際法により戦時捕虜として扱うことを要求した。1910年2月14日、中国麗水(ヨス)順天(スンチョン)で死刑宣告を受けたが、最後まで悠然とした姿勢を崩さなかった。
伊藤に対し明成(ミョンソン)王后殺害と高宗皇帝廃位など15種の罪状を主張したのも驚くべき気概に違いなかった。国内に安重根義士崇慕会や安重根記念事業会などが結成され活動しており、北朝鮮では「安重根、伊藤博文を撃つ」という作品の公演や映画化もされた。ハルビン駅の遺跡化と奉賛のために北朝鮮と協力する方法を探すこともできるだろう。
今年2月14日には頼むから商魂ばかりのバレンタインデーのむなしい風に浸らず、安義士の死刑宣告のことを記憶する人々が多くなったら良いと思う。
ソース:韓国日報(韓国語) [文化散歩/1月12日]ハルビン駅縁の安重根義士
h ttp://news.hankooki.com/lpage/opinion/201301/h20130111210312121770.htm
要約すると・・・
「宗主国には属国に対する愛情はないニカ?」
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