Re: 世界が認めた‘中央ソウルマラソン’
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/12/26 18:09 投稿番号: [1131 / 4080]
「戦争は人を殺す。スポーツも戦いだが、戦いが終わる、と握手して仲良くなれる」
孫さんは、1912年5月29日、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領内にある平安北道新義州生まれ、19歳の時に、陸上競技の才能を見初められて養正高等普通学校(ソウル)に入学、本格的にマラソンに取り組んだ。当時の朝鮮半島は日本の植民地で(統治下に)あったため、1936年のベルリン・オリンピック(別名ナチス・オリンピック。NHK河西三省アナが「前畑リード、前畑がんばれ、前畑がんばれ、リード、リード!! 勝った、勝った…」と絶叫…!!これを聞いた日本国民は、歓喜した。また、ヒトラーがプロパガンダに利用したリーフェンシュタール監督のベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』では、日の丸を付けた日本人として孫さんの湖の周りを走る勇士が映し出されている)には同胞(どうほう=同じ国土に生まれた人々。同じ国民。また、同じ民族)の南昇竜(ナムスンヨン。01年2月に88歳で死去)さんとともに、ゼッケン「382」を付けて日本代表として出場、しかし、「心の中、韓国のために」に走り、2時間29分19秒2の五輪新記録(当時の世界最高記録)で金メダルを獲得した(だが国籍が日本であったため表彰式では「君が代」が流れた)。
大会直後には、韓国人初の金メダリストという快挙に、当時の朝鮮の人たちは栄光と感激に浸り、現在の韓国紙『東亜日報』が表彰台に立つ孫氏のシャツの胸にあった、「日本支配の象徴」である「日の丸」(日章旗)を塗りつぶした写真を本人の意思とは無関係に掲載した。
だが、反日意識の高まりを恐れた日本(朝鮮総督府)の治安当局は警戒を強め、『東亜日報』を無期(10カ月)停刊処分とするとともに、社員を逮捕拷問し、社長をも逮捕して言論機関からの追放処分した(日章旗抹消事件)上、孫さん自身、ソウルでの祝賀会は禁止され、競技会に出ることも禁止されるばかりか、電車に乗ることまで干渉もされる等、厳しい日本の官憲の監視下におかれた。
不幸な歴史が生んだ「悲劇のヒーロー」となった孫さんは苦学しながら40年に明治大学法学部を卒業後、貯蓄銀行(現みずほ銀行)に入行したが、この事件は、殖民地支配が終わった戦後も韓国の人々にとって、植民地支配時代の屈辱(悲劇)の象徴として語り継がれており、孫さんは、「民族の英雄」であるとともに、「心ならずも日の丸をつけて走り」、「言語に尽くせない辱(はずか)め」を体験した「屈辱の歴史」の証言者となった。
孫さんは、日本の植民地支配終結後の48年に大韓体育会副会長、63年に大韓陸上連盟会長、71年に韓国オリンピック委員会(KOC)委員、81年から88年までソウル五輪組織委員を歴任、マラソン強国「韓国」の基礎を築き、47年ボストンマラソン優勝の徐潤福選手、92年バルセロナ五輪金メダリストの黄永祚選手ら後進ランナーの育成にも貢献(バルセロナ五輪では日本の森下広一選手を振り切っての勝利に、韓国のマスコミは「56年間の恨(ハン)を晴らした」との記事を掲載)、88年のソウル五輪では聖火リレー・トラック走者を務め注目を集めた。また、朝鮮紡織(株)理事、ソウル製粉(株)社長などを歴任し、80年に実業界から退いた。
「歴代の五輪マラソン勝者に金持ちはいない。貧しい中からしか42.195キロを走り抜く気力は生まれない」というのが孫さんの「マラソン哲学」だったが、00年に糖尿病が悪化し、合併症で壊疽(えそ)が進んだ足の切断を担当医師が勧めた時、「せっかく、金メダルを取った足なのだから、切りたくない」と、病床でかたくなに拒否、02年11月15日未明、ソウル市内の病院で死去した。享年90歳。遺体は韓国中西部の大田市にある国立顕忠院に埋葬された。植民地支配という忌まわしい日韓関係を、スポーツを介して敏感に感じ取った歴史の生き証人であった。
朝から雨が降りしきる中、遺族と親交がある芥川賞作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんも姿を見せた葬儀には遺族や韓国の五輪関係者ら多数が参列、葬儀委員長を務めた李衍沢大韓体育会会長は、「孫選手は暗黒の植民地時代に差し込んだ、こうこうたる光だった」「韓国がスポーツ強国となる上での原動力だった」と功績をたたえ、孫氏の長男、正寅氏が「父の精神を忘れない」とあいさつした。
参考資料;02年11月16日付『新聞各紙』&『昭和−第4巻−』(講談社)&02年7月1日付『朝日新聞』
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sonngijyonn.htm
孫さんは、1912年5月29日、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領内にある平安北道新義州生まれ、19歳の時に、陸上競技の才能を見初められて養正高等普通学校(ソウル)に入学、本格的にマラソンに取り組んだ。当時の朝鮮半島は日本の植民地で(統治下に)あったため、1936年のベルリン・オリンピック(別名ナチス・オリンピック。NHK河西三省アナが「前畑リード、前畑がんばれ、前畑がんばれ、リード、リード!! 勝った、勝った…」と絶叫…!!これを聞いた日本国民は、歓喜した。また、ヒトラーがプロパガンダに利用したリーフェンシュタール監督のベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』では、日の丸を付けた日本人として孫さんの湖の周りを走る勇士が映し出されている)には同胞(どうほう=同じ国土に生まれた人々。同じ国民。また、同じ民族)の南昇竜(ナムスンヨン。01年2月に88歳で死去)さんとともに、ゼッケン「382」を付けて日本代表として出場、しかし、「心の中、韓国のために」に走り、2時間29分19秒2の五輪新記録(当時の世界最高記録)で金メダルを獲得した(だが国籍が日本であったため表彰式では「君が代」が流れた)。
大会直後には、韓国人初の金メダリストという快挙に、当時の朝鮮の人たちは栄光と感激に浸り、現在の韓国紙『東亜日報』が表彰台に立つ孫氏のシャツの胸にあった、「日本支配の象徴」である「日の丸」(日章旗)を塗りつぶした写真を本人の意思とは無関係に掲載した。
だが、反日意識の高まりを恐れた日本(朝鮮総督府)の治安当局は警戒を強め、『東亜日報』を無期(10カ月)停刊処分とするとともに、社員を逮捕拷問し、社長をも逮捕して言論機関からの追放処分した(日章旗抹消事件)上、孫さん自身、ソウルでの祝賀会は禁止され、競技会に出ることも禁止されるばかりか、電車に乗ることまで干渉もされる等、厳しい日本の官憲の監視下におかれた。
不幸な歴史が生んだ「悲劇のヒーロー」となった孫さんは苦学しながら40年に明治大学法学部を卒業後、貯蓄銀行(現みずほ銀行)に入行したが、この事件は、殖民地支配が終わった戦後も韓国の人々にとって、植民地支配時代の屈辱(悲劇)の象徴として語り継がれており、孫さんは、「民族の英雄」であるとともに、「心ならずも日の丸をつけて走り」、「言語に尽くせない辱(はずか)め」を体験した「屈辱の歴史」の証言者となった。
孫さんは、日本の植民地支配終結後の48年に大韓体育会副会長、63年に大韓陸上連盟会長、71年に韓国オリンピック委員会(KOC)委員、81年から88年までソウル五輪組織委員を歴任、マラソン強国「韓国」の基礎を築き、47年ボストンマラソン優勝の徐潤福選手、92年バルセロナ五輪金メダリストの黄永祚選手ら後進ランナーの育成にも貢献(バルセロナ五輪では日本の森下広一選手を振り切っての勝利に、韓国のマスコミは「56年間の恨(ハン)を晴らした」との記事を掲載)、88年のソウル五輪では聖火リレー・トラック走者を務め注目を集めた。また、朝鮮紡織(株)理事、ソウル製粉(株)社長などを歴任し、80年に実業界から退いた。
「歴代の五輪マラソン勝者に金持ちはいない。貧しい中からしか42.195キロを走り抜く気力は生まれない」というのが孫さんの「マラソン哲学」だったが、00年に糖尿病が悪化し、合併症で壊疽(えそ)が進んだ足の切断を担当医師が勧めた時、「せっかく、金メダルを取った足なのだから、切りたくない」と、病床でかたくなに拒否、02年11月15日未明、ソウル市内の病院で死去した。享年90歳。遺体は韓国中西部の大田市にある国立顕忠院に埋葬された。植民地支配という忌まわしい日韓関係を、スポーツを介して敏感に感じ取った歴史の生き証人であった。
朝から雨が降りしきる中、遺族と親交がある芥川賞作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんも姿を見せた葬儀には遺族や韓国の五輪関係者ら多数が参列、葬儀委員長を務めた李衍沢大韓体育会会長は、「孫選手は暗黒の植民地時代に差し込んだ、こうこうたる光だった」「韓国がスポーツ強国となる上での原動力だった」と功績をたたえ、孫氏の長男、正寅氏が「父の精神を忘れない」とあいさつした。
参考資料;02年11月16日付『新聞各紙』&『昭和−第4巻−』(講談社)&02年7月1日付『朝日新聞』
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sonngijyonn.htm
これは メッセージ 1130 (kohshien21c さん)への返信です.
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