榛葉家(日本)とハドソン家(英国)その1
投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2003/11/30 17:08 投稿番号: [8214 / 49973]
以前にこのトピで北米(米国)に移住した島氏の話を紹介しましたが、
今度は南米(アルゼンチン)に移住した榛葉よし雄(しんやよしお、
”よし”に当たる漢字は当用漢字になく変換不可)の話を紹介します。
島氏以上に一般の日本人の方々には知られていないと思われる榛葉氏
ですが、昔から世界各地で日本人の優秀性が高く評価されていた実話の
ホンの一例として書きます。同時に世界的に評価される人材を今もって
1人も輩出していない「人材不毛民族」韓国人の嫉妬心・劣等感の生傷に
ワサビを塗りこみ、奴らが「アイゴー!」と転げまわりのた打ち回って悔しがり、
例によって事実の歪曲・捏造してまで「民族規模の壮大なオ○ニー行為」をして
精神的バランスをとるのを我々日本人が冷静に眺め嘲笑し楽しむ為でもあります。
ちなみに島氏の話も榛葉氏の話も参考資料となった書籍は同じものです。
(社団法人アルゼンチン拓殖協同組合が出版した日亜修好百周年記念誌、非売品)
榛葉氏は1884年佐賀生まれ、中学時代に当時日本を訪れていた
アルゼンチン海軍練習艦が横浜港に寄港していた時にわざわざ横浜まで
出向き艦長(後の海軍大臣オノフレ)と交渉しボーイとして乗艦を許可
されたそうです。(1900年、勿論、親の承諾を貰って)榛葉氏も最初は
漠然と米国へ行きたい、と考えていたそうですが、艦長の誘いにはるばる
アルゼンチンまで行く決心をしました。日本アルゼンチン修好通商条約後
(1898年)の最初の日本人移住者でした。(余談ですが、日本アルゼンチン
修好100周年の1998年サッカーW杯に日本が初出場し初戦の相手が
アルゼンチン、には不思議な縁を感じたものでした)
アルゼンチンで榛葉氏は仕事の傍ら勉学にも励みブエノスアイレス大学
法学部(日本でたとえるなら東大法学部)に進んでいます。
韓国人と異なり優秀な日本人の榛葉氏は担当教授から「私はもう年寄りだから、
君が卒業したら私の研究は全部、君のものだ」と見込まれるほどでした。
また彼は3年ほどの滞在でスペイン語を自由自在に操るまでになり、当時の
「東京国民新聞」通信員としてアルゼンチンを詳細に報道したそうです。
仕事や大学以外にも彼は多くの現地の友人を作っていましたが、
(このあたり海外でも排他的・社交下手・白人コンプレックスの
韓国人とは大違いです)そのうちの1人YMCAクラブで知り合った
当時の英国の著名小説家ハドソン(William Henry Hudson)家の
英国系女性マリアエレーナ・ハドソンと知り合い(ハドソンの妹)
その娘ラウラと結婚することになりました。この時に前述の担当教授は
大学を中退して結婚を決意した榛葉氏に狼狽し、彼の両親を呼んで
「どうか、卒業してから結婚するよう言って欲しい」と頼んだそうです。
結局榛葉氏は大学を中退し結婚に踏み切りましたが。(続く)
今度は南米(アルゼンチン)に移住した榛葉よし雄(しんやよしお、
”よし”に当たる漢字は当用漢字になく変換不可)の話を紹介します。
島氏以上に一般の日本人の方々には知られていないと思われる榛葉氏
ですが、昔から世界各地で日本人の優秀性が高く評価されていた実話の
ホンの一例として書きます。同時に世界的に評価される人材を今もって
1人も輩出していない「人材不毛民族」韓国人の嫉妬心・劣等感の生傷に
ワサビを塗りこみ、奴らが「アイゴー!」と転げまわりのた打ち回って悔しがり、
例によって事実の歪曲・捏造してまで「民族規模の壮大なオ○ニー行為」をして
精神的バランスをとるのを我々日本人が冷静に眺め嘲笑し楽しむ為でもあります。
ちなみに島氏の話も榛葉氏の話も参考資料となった書籍は同じものです。
(社団法人アルゼンチン拓殖協同組合が出版した日亜修好百周年記念誌、非売品)
榛葉氏は1884年佐賀生まれ、中学時代に当時日本を訪れていた
アルゼンチン海軍練習艦が横浜港に寄港していた時にわざわざ横浜まで
出向き艦長(後の海軍大臣オノフレ)と交渉しボーイとして乗艦を許可
されたそうです。(1900年、勿論、親の承諾を貰って)榛葉氏も最初は
漠然と米国へ行きたい、と考えていたそうですが、艦長の誘いにはるばる
アルゼンチンまで行く決心をしました。日本アルゼンチン修好通商条約後
(1898年)の最初の日本人移住者でした。(余談ですが、日本アルゼンチン
修好100周年の1998年サッカーW杯に日本が初出場し初戦の相手が
アルゼンチン、には不思議な縁を感じたものでした)
アルゼンチンで榛葉氏は仕事の傍ら勉学にも励みブエノスアイレス大学
法学部(日本でたとえるなら東大法学部)に進んでいます。
韓国人と異なり優秀な日本人の榛葉氏は担当教授から「私はもう年寄りだから、
君が卒業したら私の研究は全部、君のものだ」と見込まれるほどでした。
また彼は3年ほどの滞在でスペイン語を自由自在に操るまでになり、当時の
「東京国民新聞」通信員としてアルゼンチンを詳細に報道したそうです。
仕事や大学以外にも彼は多くの現地の友人を作っていましたが、
(このあたり海外でも排他的・社交下手・白人コンプレックスの
韓国人とは大違いです)そのうちの1人YMCAクラブで知り合った
当時の英国の著名小説家ハドソン(William Henry Hudson)家の
英国系女性マリアエレーナ・ハドソンと知り合い(ハドソンの妹)
その娘ラウラと結婚することになりました。この時に前述の担当教授は
大学を中退して結婚を決意した榛葉氏に狼狽し、彼の両親を呼んで
「どうか、卒業してから結婚するよう言って欲しい」と頼んだそうです。
結局榛葉氏は大学を中退し結婚に踏み切りましたが。(続く)
これは メッセージ 8126 (kohshien21 さん)への返信です.
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