ちょっと訳しておくと、
投稿者: bosintang 投稿日時: 2003/08/31 09:30 投稿番号: [7281 / 49973]
結論部分です。
最近,わが国の社会で憎悪の水位が非常に高まっているのが気がかりだ。以上に見てきたとおり,社会的憎悪は,当初の標的が何であろうと,究極的には体制を標的にするようになる。そのような点で,今,われわれが注目しなければならないのは,財閥に対する憎悪と親日派に対する憎悪だ。
財閥がわが国の社会におけるもっとも重要な「社会的悪漢」になって以来,すでに久しい。財閥に対して多くの市民たちが抱いている恐れと憎悪はいかにも大きく,財閥に対する攻撃は,正しかろうが間違っていようが,すべて許される。気がかりなことに,財閥に対する憎悪は,ほとんど必然的に,わが国の市場経済体制に対する憎悪へと広がっていく。そのため,わが国の市場経済体制を弱める社会主義的措置が「財閥の弊害に対する対策」という形で導入されつつある。
親日派に対する憎悪は,行き過ぎれば,わが国の体制と政権の正当性を毀損することにもつながる。今,親日派に対して大きな憎悪をあらわにする人々は,光復後のもっとも重要な課題は親日派の清算だったと主張する。そして,大韓民国はその課題をきちんと果たせなかったため,米軍政,李承晩政権そして朴正煕政権において親日派が勢力を得,それゆえわが国の体制は「親日派支配構造」だと主張する。
巨大で複雑な現代社会の多様な面貌をすべて捨象し,もっぱら親日問題だけを問題視する主張が社会的論議に役立つはずがないが,このような主張が特に危険なのは,それを拡げる人々が意図しようがしまいが,それが必然的にわが国の体制の正当性を毀損するという事実のためだ。
これまで見た通り,今わが国の社会で密かに隙をうかがう憎悪の水勢を低めることは重要だ。残念ながら,それは簡単ではない。憎悪はあまりにもたやすく,寛容はあまりにも難しい。
長期的には,わが国の社会をもう少し住みよい社会にすることが根本的対策であるはずだ。良い暮らしをする社会に,憎悪がないということはないが,それでもひどい暮らしをする人々が多い社会より,憎悪が少ないはずだ。
短期的には活発な討論を通じて,反目したり,利害が食い違う集団の間の誤解を減らし,共感を増やすのが緊要だ。反ユダヤ主義の歴史が教えるように,社会的憎悪の原因の中でつねにいちばん大きいのは,社会的多数と違う異質的集団に対する理解の不足だった。
しかし,討論が活発になされる社会は,思いのほか稀だ。いまわが国の社会では、討論がきちんとなされていない。非常にやせた文化的土壌がもう少し肥沃にならなければ,利害集団の脅しという妨害を受けず,敏感なテーマに関する討論が活発になされうるはずだ。
討論が活発になされるようにしようと思えば,討論に参加する人々は道徳的にみな同等だという事実が広く認識されなければならない。ある見解をもったという事実が,その人に先験的に道徳的優越性を付与するわけではない。
特に強調されなければならないのは,社会的多数の見解は,そのような見解をもつ人々に,いかなる道徳的優越性も与えないという点だ。実は「社会的悪漢」たちを弁護するには,多数の見解を代弁するのより,ずっと大きな道徳的勇気と知的努力が必要だ。
自分のもつ見解のおかげで,自分が他の見解をもつ人々より道徳的に優越だと信じる人々は,ほとんど必然的に,そのような人々を憎悪するはずだ。そしてそのような憎悪は,究極的に社会体制を弱化させる。わが国の体制を守ろうとする人々は,そのように正当化されえない道徳的優越感をあらわにする人々の誤りを指摘しなければならず,社会的少数者たちと少数意見を擁護しなければならないだろう。
卜鉅一「韓国を憎悪の社会にしたのは誰だ」(月刊朝鮮2002年10月号)
http://monthly.chosun.com/html/200210/200210060040_1.html
最近,わが国の社会で憎悪の水位が非常に高まっているのが気がかりだ。以上に見てきたとおり,社会的憎悪は,当初の標的が何であろうと,究極的には体制を標的にするようになる。そのような点で,今,われわれが注目しなければならないのは,財閥に対する憎悪と親日派に対する憎悪だ。
財閥がわが国の社会におけるもっとも重要な「社会的悪漢」になって以来,すでに久しい。財閥に対して多くの市民たちが抱いている恐れと憎悪はいかにも大きく,財閥に対する攻撃は,正しかろうが間違っていようが,すべて許される。気がかりなことに,財閥に対する憎悪は,ほとんど必然的に,わが国の市場経済体制に対する憎悪へと広がっていく。そのため,わが国の市場経済体制を弱める社会主義的措置が「財閥の弊害に対する対策」という形で導入されつつある。
親日派に対する憎悪は,行き過ぎれば,わが国の体制と政権の正当性を毀損することにもつながる。今,親日派に対して大きな憎悪をあらわにする人々は,光復後のもっとも重要な課題は親日派の清算だったと主張する。そして,大韓民国はその課題をきちんと果たせなかったため,米軍政,李承晩政権そして朴正煕政権において親日派が勢力を得,それゆえわが国の体制は「親日派支配構造」だと主張する。
巨大で複雑な現代社会の多様な面貌をすべて捨象し,もっぱら親日問題だけを問題視する主張が社会的論議に役立つはずがないが,このような主張が特に危険なのは,それを拡げる人々が意図しようがしまいが,それが必然的にわが国の体制の正当性を毀損するという事実のためだ。
これまで見た通り,今わが国の社会で密かに隙をうかがう憎悪の水勢を低めることは重要だ。残念ながら,それは簡単ではない。憎悪はあまりにもたやすく,寛容はあまりにも難しい。
長期的には,わが国の社会をもう少し住みよい社会にすることが根本的対策であるはずだ。良い暮らしをする社会に,憎悪がないということはないが,それでもひどい暮らしをする人々が多い社会より,憎悪が少ないはずだ。
短期的には活発な討論を通じて,反目したり,利害が食い違う集団の間の誤解を減らし,共感を増やすのが緊要だ。反ユダヤ主義の歴史が教えるように,社会的憎悪の原因の中でつねにいちばん大きいのは,社会的多数と違う異質的集団に対する理解の不足だった。
しかし,討論が活発になされる社会は,思いのほか稀だ。いまわが国の社会では、討論がきちんとなされていない。非常にやせた文化的土壌がもう少し肥沃にならなければ,利害集団の脅しという妨害を受けず,敏感なテーマに関する討論が活発になされうるはずだ。
討論が活発になされるようにしようと思えば,討論に参加する人々は道徳的にみな同等だという事実が広く認識されなければならない。ある見解をもったという事実が,その人に先験的に道徳的優越性を付与するわけではない。
特に強調されなければならないのは,社会的多数の見解は,そのような見解をもつ人々に,いかなる道徳的優越性も与えないという点だ。実は「社会的悪漢」たちを弁護するには,多数の見解を代弁するのより,ずっと大きな道徳的勇気と知的努力が必要だ。
自分のもつ見解のおかげで,自分が他の見解をもつ人々より道徳的に優越だと信じる人々は,ほとんど必然的に,そのような人々を憎悪するはずだ。そしてそのような憎悪は,究極的に社会体制を弱化させる。わが国の体制を守ろうとする人々は,そのように正当化されえない道徳的優越感をあらわにする人々の誤りを指摘しなければならず,社会的少数者たちと少数意見を擁護しなければならないだろう。
卜鉅一「韓国を憎悪の社会にしたのは誰だ」(月刊朝鮮2002年10月号)
http://monthly.chosun.com/html/200210/200210060040_1.html
これは メッセージ 7279 (bosintang さん)への返信です.
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