Re: Re: Re: 『幻の三中井百貨店』
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/05/10 12:23 投稿番号: [36389 / 49973]
>「豊かな日常生活を『多くの朝鮮人』と日本人が同時に楽しんでいたのである」の部分に語弊があると思うの。当時、京城に住んでいた多くの日本人は豊かな日常生活を楽しんでいたと思うわ。でも、韓国人の場合は、多くとは言えないほどの限られた少数派だったのではないかしら。
限られた少数派でなかったことは、資料によって証明されたので、オシマイ。
朝鮮人の全員が、日本人同様の「豊かな日常生活」でないのは、当たり前の話。
京城の日本人は、食い詰めた浮浪者ではなく、総統府の役人、企業の管理職、貿易商、商店主、教員などそれなりの生活水準にある人たちです。
それに対して、京城の原住民というべき朝鮮人のほとんどは、それまで貧困のどん底にいた訳です。
それは朝鮮自身の問題です。日本のセイではありません。
しかし日韓併合によって、巨大な公共事業が行われ、巨額のカネが落ち、多くの商品が生産され流通するようになれば、少なからずそれに携わる朝鮮人の懐を潤しております。
それは、ピラミッド式とはいえ、朝鮮人全体の生活水準をかなり引き上げております。
少なくとも、李朝での生活水準から見れば、「豊かな日常生活」です。
だって、飢饉のない生活、糞のない綺麗な道路、清潔な街、電灯のある生活、川に橋が架かって電車が走る、病院や学校がある近代都市になったのですから。
---------------------------- -
寄稿 日本の植民地時代を顧みて
朝鮮は日本の植民地になったお陰で生活水準がみるみる向上した
元韓国・仁荷大学教授 朴贊雄
当時の朝鮮は日本の植民地になったお陰で、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信・電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城はおちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi41_text02.html
------------------------ -
イザベラ・バード著『朝鮮紀行』より。
『一八九四年一月から一八九七年三月にかけ、わたしはモンゴロイドの特性調査の一環として四度にわたる朝鮮旅行を行った。』
『第二章 首都の第一印象
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪嗅ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色のあめを売る行商人もいて、みぞの上に板をさし渡し、おそらく一ドル程度の品物をならべている。とはいえソウルにも「大掃除」はあり、漢江の砂地や渡し船の上や麻浦からソウルにいたる路上で、みぞの中身を荷かごに積んで運ぶ牛を数えきれないほど見た。』
『商店はどれも、商品のすべてが手を伸ばせば届くところにあるほど小さい。三本ある広い通りのひとつには屋台が両側にならび、そこでは鉄に銀をはめこんだ朝鮮式象眼の小箱がときおり見受けられる。こういった店でもまたべつの店でも、おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ、風除けのついた燭台、くし、ガラスのビーズ、キセル、たばこ入れ、痰つぼ、官吏がよくかけている角縁眼鏡、さまざまな種類の紙、木製まくら、飾りの入ったまくらカバー、扇子、すずり、緑のたれ革を銀の鋲でとめた大きな木製鞍、洗濯棒、干し柿、紫色や緋色や緑に染めた胸の悪くなりそうなあめ、大量の干した海藻と干しきのこといったもので、そのほかにある安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不用品からいちばんくだらないものばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしかいいようがない。』
限られた少数派でなかったことは、資料によって証明されたので、オシマイ。
朝鮮人の全員が、日本人同様の「豊かな日常生活」でないのは、当たり前の話。
京城の日本人は、食い詰めた浮浪者ではなく、総統府の役人、企業の管理職、貿易商、商店主、教員などそれなりの生活水準にある人たちです。
それに対して、京城の原住民というべき朝鮮人のほとんどは、それまで貧困のどん底にいた訳です。
それは朝鮮自身の問題です。日本のセイではありません。
しかし日韓併合によって、巨大な公共事業が行われ、巨額のカネが落ち、多くの商品が生産され流通するようになれば、少なからずそれに携わる朝鮮人の懐を潤しております。
それは、ピラミッド式とはいえ、朝鮮人全体の生活水準をかなり引き上げております。
少なくとも、李朝での生活水準から見れば、「豊かな日常生活」です。
だって、飢饉のない生活、糞のない綺麗な道路、清潔な街、電灯のある生活、川に橋が架かって電車が走る、病院や学校がある近代都市になったのですから。
---------------------------- -
寄稿 日本の植民地時代を顧みて
朝鮮は日本の植民地になったお陰で生活水準がみるみる向上した
元韓国・仁荷大学教授 朴贊雄
当時の朝鮮は日本の植民地になったお陰で、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信・電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城はおちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi41_text02.html
------------------------ -
イザベラ・バード著『朝鮮紀行』より。
『一八九四年一月から一八九七年三月にかけ、わたしはモンゴロイドの特性調査の一環として四度にわたる朝鮮旅行を行った。』
『第二章 首都の第一印象
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪嗅ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色のあめを売る行商人もいて、みぞの上に板をさし渡し、おそらく一ドル程度の品物をならべている。とはいえソウルにも「大掃除」はあり、漢江の砂地や渡し船の上や麻浦からソウルにいたる路上で、みぞの中身を荷かごに積んで運ぶ牛を数えきれないほど見た。』
『商店はどれも、商品のすべてが手を伸ばせば届くところにあるほど小さい。三本ある広い通りのひとつには屋台が両側にならび、そこでは鉄に銀をはめこんだ朝鮮式象眼の小箱がときおり見受けられる。こういった店でもまたべつの店でも、おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ、風除けのついた燭台、くし、ガラスのビーズ、キセル、たばこ入れ、痰つぼ、官吏がよくかけている角縁眼鏡、さまざまな種類の紙、木製まくら、飾りの入ったまくらカバー、扇子、すずり、緑のたれ革を銀の鋲でとめた大きな木製鞍、洗濯棒、干し柿、紫色や緋色や緑に染めた胸の悪くなりそうなあめ、大量の干した海藻と干しきのこといったもので、そのほかにある安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不用品からいちばんくだらないものばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしかいいようがない。』
これは メッセージ 36377 (bojinyo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4z9q7zbbkoc0a2ab4z9qbfma4nbb22ca1a2bg4bf7de_1/36389.html