Re: 無駄な公共事業や官僚の経費無駄使い
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/07/29 22:10 投稿番号: [33584 / 49973]
>封建制社会
最近、石川英輔氏の、江戸時代関連の本を漁っているのですが。
江戸時代は「表向き」封建制社会ですが、これはあくまで「武家社会」のみの話で。
大部分の一般庶民・農漁民にとっては「封建的民主主義社会」だったようです。
例えば江戸。
江戸の行政は「南北町奉行所」が担当しますが。
その機能は現代で言えば「東京都庁・兼・警視庁・兼・東京高等裁判所・兼・東京地方検察庁(だったかな?)・兼・税務署」
膨大な職員が必要な気がしますが、実際の南北町奉行所の役人は合計290人のみ。
江戸の町方人口は約50万人ですから、1725人当たり役人1人。
その中で、警察・裁判等の司法官は66人。
月番の奉行所(南北どちらか)で、与力・同心合わせて33人。
実際の警察業務に付く「定町廻同心」は12人のみ・・・
人口50万人に、警察官12人。
行政官も、この上記66人を除いた224人で、50万人都市の全行政を担当する・・・(町民2230人当たり、役人1人)
(因みに、今の23区は住民100人に付、職員1人の割合だそうです)
実際、出来ません。
んで、結局は「町年寄」(奈良屋、樽屋、喜多村、の三家)「町名主」(280人ほど)「大家」(2万人ほど)が、実際の民政、警邏、訴訟、法令通達、示談交渉、刑罰処分、等々をやってたそうです。(彼等は「町人」)
町奉行所は、町役人では処理できない大事件のみの担当、「最高裁」のようなものだったとか。
兎に角、行政全般を民間へ全面的にアウトソーシングしていた、と。
町奉行所の決定を、「年番名主」達が不承認して撤回させた場合も多々有ったとか。
天領も同様で。
天領は5〜6万石ほどづつに分けられますが。
大名家で5〜6万石と言えば、家臣は300人位います。
が、天領の「代官」は精々役料合わせて百五十俵〜二百俵程度の下級旗本が就任しており、その「家臣」は、精々小者・中間が二〜三人程度。
結局「代官所の役人」は「現地採用の地元の百姓衆」です。
「悪徳代官」は実際には存在しません(と言うか、命が惜しいから『存在できない』)
これが大名家でも同様で。
各藩は家臣は家族全員、城下町に住む事を義務付けられていましたから(城下町から勝手に出ると、目付けに厳しく尋問される)
実際の農村管理は「代官」がやっていましたし。
天領同様、その「役人」は地元の百姓衆です。
「名主」「庄屋」と「年寄」「組頭」と「百姓代」(農民の村会議員)が「村三役」で村落行政やっておりました。
「代官」は「村三役」が集めた年貢を受け取るだけ。
年貢の徴税額も、天領や各藩共に、村落側と武家側の「年次折衝」でやってたようです。
年貢も、実際は「四公六民」「三公七民」どころか、大抵は「一公九民」酷くて「二公八民」程度だったようです。
「太閤検地」の村高をそのまま幕末まで使用したので、その後新規開拓しても村高が変わらなかった事と。
(実際、七百石生産したのに、村高五百石だから年貢四割として二百石。実際は二割八分五厘、なんて事は、普通にあったようで)
他の農産物、麦、大豆、菜種とかを米の生産量に換算すると、米で四割でも、全体では二割ほどになります。
その他、繭、生糸、綿、小豆、栗、野菜等の農産物、酒造業の産出金額、農閑期の出稼ぎ賃金、等の付加価値の高い所得は、年貢対象外。
諸々を加え、本当の村民所得と年貢米の比率を算出すると、10%未満の「年貢率」だったそうです(信濃国更級郡川中島平・寛政5年(1629年)〜明治3年(1870年)「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎著)
近江・膳所藩の例もありますが、やはり10%台の年貢率だとか。
これも、「代表行政システム」武家と「民間アウトソーシング会社」村落との「契約」結果でした。
最近、石川英輔氏の、江戸時代関連の本を漁っているのですが。
江戸時代は「表向き」封建制社会ですが、これはあくまで「武家社会」のみの話で。
大部分の一般庶民・農漁民にとっては「封建的民主主義社会」だったようです。
例えば江戸。
江戸の行政は「南北町奉行所」が担当しますが。
その機能は現代で言えば「東京都庁・兼・警視庁・兼・東京高等裁判所・兼・東京地方検察庁(だったかな?)・兼・税務署」
膨大な職員が必要な気がしますが、実際の南北町奉行所の役人は合計290人のみ。
江戸の町方人口は約50万人ですから、1725人当たり役人1人。
その中で、警察・裁判等の司法官は66人。
月番の奉行所(南北どちらか)で、与力・同心合わせて33人。
実際の警察業務に付く「定町廻同心」は12人のみ・・・
人口50万人に、警察官12人。
行政官も、この上記66人を除いた224人で、50万人都市の全行政を担当する・・・(町民2230人当たり、役人1人)
(因みに、今の23区は住民100人に付、職員1人の割合だそうです)
実際、出来ません。
んで、結局は「町年寄」(奈良屋、樽屋、喜多村、の三家)「町名主」(280人ほど)「大家」(2万人ほど)が、実際の民政、警邏、訴訟、法令通達、示談交渉、刑罰処分、等々をやってたそうです。(彼等は「町人」)
町奉行所は、町役人では処理できない大事件のみの担当、「最高裁」のようなものだったとか。
兎に角、行政全般を民間へ全面的にアウトソーシングしていた、と。
町奉行所の決定を、「年番名主」達が不承認して撤回させた場合も多々有ったとか。
天領も同様で。
天領は5〜6万石ほどづつに分けられますが。
大名家で5〜6万石と言えば、家臣は300人位います。
が、天領の「代官」は精々役料合わせて百五十俵〜二百俵程度の下級旗本が就任しており、その「家臣」は、精々小者・中間が二〜三人程度。
結局「代官所の役人」は「現地採用の地元の百姓衆」です。
「悪徳代官」は実際には存在しません(と言うか、命が惜しいから『存在できない』)
これが大名家でも同様で。
各藩は家臣は家族全員、城下町に住む事を義務付けられていましたから(城下町から勝手に出ると、目付けに厳しく尋問される)
実際の農村管理は「代官」がやっていましたし。
天領同様、その「役人」は地元の百姓衆です。
「名主」「庄屋」と「年寄」「組頭」と「百姓代」(農民の村会議員)が「村三役」で村落行政やっておりました。
「代官」は「村三役」が集めた年貢を受け取るだけ。
年貢の徴税額も、天領や各藩共に、村落側と武家側の「年次折衝」でやってたようです。
年貢も、実際は「四公六民」「三公七民」どころか、大抵は「一公九民」酷くて「二公八民」程度だったようです。
「太閤検地」の村高をそのまま幕末まで使用したので、その後新規開拓しても村高が変わらなかった事と。
(実際、七百石生産したのに、村高五百石だから年貢四割として二百石。実際は二割八分五厘、なんて事は、普通にあったようで)
他の農産物、麦、大豆、菜種とかを米の生産量に換算すると、米で四割でも、全体では二割ほどになります。
その他、繭、生糸、綿、小豆、栗、野菜等の農産物、酒造業の産出金額、農閑期の出稼ぎ賃金、等の付加価値の高い所得は、年貢対象外。
諸々を加え、本当の村民所得と年貢米の比率を算出すると、10%未満の「年貢率」だったそうです(信濃国更級郡川中島平・寛政5年(1629年)〜明治3年(1870年)「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎著)
近江・膳所藩の例もありますが、やはり10%台の年貢率だとか。
これも、「代表行政システム」武家と「民間アウトソーシング会社」村落との「契約」結果でした。
これは メッセージ 33580 (sinsei_yamatoteikoku_v1 さん)への返信です.
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