元寇の発端、etc2
投稿者: samurai_03_japanjp 投稿日時: 2005/10/03 01:28 投稿番号: [28296 / 49973]
<高麗の役割>
>「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が、「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」とある。
>なぜ?
この当時の「世界の警察官」元軍を半島に繋ぎ止めておくためでしょう。
高麗はモンゴルの侵攻前は武臣(崔忠献)が王を傀儡化して政権を執っており、
王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返しました。
それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、
モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていました。
これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されますが、
一部はなお激しい抵抗を続けていた。
これが三別抄です。
忠烈王の発言は王権を保つために、クビライの意を迎えようとしたとする見解があります。
因みに、日本攻略ルートは『元史高麗伝』によると当初より三つの案が検討されていました。
1.日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。
この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
2.まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。
この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持。
3.高麗軍を使って東路より日本を攻略する。
この案では兵力不足が懸念されました。
上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が、
高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられます。
<元寇によって痛手を受けた高麗>
かなりの痛手を受けます。
忠烈王以後、元の皇女と結婚してハーン(汗)の娘婿の待遇を受けるようになりますが、
同時に本来日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、
高麗は元の強い影響下に入ることになります。
また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、
事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれました。
そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王以降の国王は、
以後は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなります。
このような中で高麗貴族の間ではモンゴル風の文化が大流行し、
自らモンゴル風の姓名を名乗るものが続出、
果ては元への合邦を望む声も出る有様です。
1370年に明が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、
高麗は明と修好しましたが、国内では親明派と親元派の「伝統の」抗争が(笑)
この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂が1388年にクーデターを起こして政権を掌握。
恭譲王を立てると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に自ら即位して李氏朝鮮王朝を興します。
ここに恭譲王は廃され、高麗は滅亡。
>「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が、「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」とある。
>なぜ?
この当時の「世界の警察官」元軍を半島に繋ぎ止めておくためでしょう。
高麗はモンゴルの侵攻前は武臣(崔忠献)が王を傀儡化して政権を執っており、
王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返しました。
それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、
モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていました。
これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されますが、
一部はなお激しい抵抗を続けていた。
これが三別抄です。
忠烈王の発言は王権を保つために、クビライの意を迎えようとしたとする見解があります。
因みに、日本攻略ルートは『元史高麗伝』によると当初より三つの案が検討されていました。
1.日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。
この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
2.まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。
この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持。
3.高麗軍を使って東路より日本を攻略する。
この案では兵力不足が懸念されました。
上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が、
高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられます。
<元寇によって痛手を受けた高麗>
かなりの痛手を受けます。
忠烈王以後、元の皇女と結婚してハーン(汗)の娘婿の待遇を受けるようになりますが、
同時に本来日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、
高麗は元の強い影響下に入ることになります。
また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、
事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれました。
そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王以降の国王は、
以後は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなります。
このような中で高麗貴族の間ではモンゴル風の文化が大流行し、
自らモンゴル風の姓名を名乗るものが続出、
果ては元への合邦を望む声も出る有様です。
1370年に明が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、
高麗は明と修好しましたが、国内では親明派と親元派の「伝統の」抗争が(笑)
この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂が1388年にクーデターを起こして政権を掌握。
恭譲王を立てると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に自ら即位して李氏朝鮮王朝を興します。
ここに恭譲王は廃され、高麗は滅亡。
これは メッセージ 28294 (samurai_03_japanjp さん)への返信です.
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