>沖縄戦では、
投稿者: kuuboakagi002 投稿日時: 2002/10/29 05:44 投稿番号: [1541 / 49973]
沖縄戦についての左翼の主張。
あるホームページからのコピペですが。
スパイ容疑
沖縄の歴史と文化、生活習慣を無視して、本土決戦の捨て石とした沖縄戦であってみれば、住民を理解することは無理であった。逆に住民を戦争の協力者としての側面(協力不能者には軽蔑感)だけから接していた。したがって、方言や生活習慣の違いは、第32軍にとって拒否すべきものであった。
牛島司令官は着任早々、「防諜ニハ厳ニ注意スベシ」と訓示した。また、「方言を使うものはスパイとみなす」という命令を出した部隊幹部もいた。
沖縄(住民)蔑視
戦線が島尻一帯に後退後、島尻のガマは避難民であふれていた。そこへ第32軍がなだれ込み、食糧強奪、ガマ追い出し、住民虐殺、婦女暴行、米軍の砲火の楯等あらゆる暴虐をした。住民の証言や生存将兵の証言等から、あきらかに沖縄の住民を蔑視していたことがうかがわれる。それは、日中戦争の最中、日本兵が中国人にしたことと似たスタイルであった。その背景には帝国軍人の権威もあったが、それだけではなかった。
沖縄は薩摩の侵攻以来薩摩の属国として江戸幕府の体制に組み込まれ、明治以降は「天皇制国家」の後進県として、差別的な政治的経済的文化的処遇を受けてきた。その中心的柱になったのが、「皇国日本」への貢献度という物差しで計られた沖縄(人)蔑視であった。
徴兵制が敷かれ、沖縄に対する差別は一段と増幅された。すなわち、沖縄在の徴兵機関による報告書の中には、沖縄県人が如何に遅れているかがこと細かに報告されているのである。それらは明治、大正、昭和と引き継がれていて、その評価は決して変わることはなかった。
離島県である沖縄の政治、経済、文化の歴史を全く無視した偏見の目は、沖縄戦で配備された本土出身の日本兵にも根強く引き継がれていたと考えるのが普通である。それらの歴史的偏見に基づく沖縄作戦であってみれば、沖縄県民への対処のしかたも当然変わってくるものであろう。
4 違法・無法の戦争動員
非戦闘員女性を戦場に動員
戦時動員については、法の改悪等で年齢の上限と下限を拡大して、動員態勢を敷いたが、沖縄においては、その時々の法が必ずしも守られていない。女子学徒動員にしても、戦場に看護要員として配置することはその年齢、身分(配属された野戦病院では、兵隊の身分として扱われていた)等からして違法といえよう。また、学徒動員以外でも、各地で地域の女子青年が簡単な訓練を受けて戦場に動員されている例もある。
少年の戦場動員
沖縄戦の後半、島尻では、12、3歳の少年が弾薬を前線に運ぶ要員に動員されているし、また、伝令として動員された証言もある。
在郷軍人の防衛隊組織動員
牛島司令官の命によって、各市町村単位に編成され、軍隊と共に行動したことが証言されている。戦場動員では主に弾薬運搬だった。これらのことは大本営でも逆に取り上げられ、後には法制化されていった経緯がある。
5 国体護持の戦争
以上みてきたとおり、沖縄戦は近代戦争の中でも、まれにみる残虐非道の戦争であった。そのような状況をつくった根本は、やはり、天皇の軍隊による戦争であったといえよう。沖縄戦のみならず、日中戦争や太平洋戦争のさまざまな場面で、天皇の軍隊は同様の状況を生み出している。
降伏のない軍隊は昭和天皇がつくった
天皇は戦況の推移を最もよく知っていたにもかかわらず、側近(近衛)の和平への進言に対して「もっと戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいとおもう。」といったり、「沖縄で勝てるという目算がありますか」に対して「統帥部は今度こそ大丈夫だといっている」と切り返している。更に念をおす近衛に対して「今度は確信があるようだ」と突っぱねている。
左翼の理論はおもしろい。
独ソ戦の中のスターリングラードの戦いでは、スターリンは、50万の住民のうち、数千人の住民を強制的に留めて、避難させなかった。この戦略的に重要な都市を守るためには住民を守るという名分が必要だったから。このうち最後まで生き残ったのは千人ほど。
ソ連軍の中でも数千人がスパイや逃亡の疑いで銃殺されている。
この戦いだけでソ連軍に100万以上の戦死者が出ているといわれているから、ソ連軍側とすれば、そのくらいの締め付けは必要だったのかもしれない。
この後、ソ連軍が反撃を始め、クルクスの大戦車戦、ドニエプル川渡河作戦が始まる。
あるホームページからのコピペですが。
スパイ容疑
沖縄の歴史と文化、生活習慣を無視して、本土決戦の捨て石とした沖縄戦であってみれば、住民を理解することは無理であった。逆に住民を戦争の協力者としての側面(協力不能者には軽蔑感)だけから接していた。したがって、方言や生活習慣の違いは、第32軍にとって拒否すべきものであった。
牛島司令官は着任早々、「防諜ニハ厳ニ注意スベシ」と訓示した。また、「方言を使うものはスパイとみなす」という命令を出した部隊幹部もいた。
沖縄(住民)蔑視
戦線が島尻一帯に後退後、島尻のガマは避難民であふれていた。そこへ第32軍がなだれ込み、食糧強奪、ガマ追い出し、住民虐殺、婦女暴行、米軍の砲火の楯等あらゆる暴虐をした。住民の証言や生存将兵の証言等から、あきらかに沖縄の住民を蔑視していたことがうかがわれる。それは、日中戦争の最中、日本兵が中国人にしたことと似たスタイルであった。その背景には帝国軍人の権威もあったが、それだけではなかった。
沖縄は薩摩の侵攻以来薩摩の属国として江戸幕府の体制に組み込まれ、明治以降は「天皇制国家」の後進県として、差別的な政治的経済的文化的処遇を受けてきた。その中心的柱になったのが、「皇国日本」への貢献度という物差しで計られた沖縄(人)蔑視であった。
徴兵制が敷かれ、沖縄に対する差別は一段と増幅された。すなわち、沖縄在の徴兵機関による報告書の中には、沖縄県人が如何に遅れているかがこと細かに報告されているのである。それらは明治、大正、昭和と引き継がれていて、その評価は決して変わることはなかった。
離島県である沖縄の政治、経済、文化の歴史を全く無視した偏見の目は、沖縄戦で配備された本土出身の日本兵にも根強く引き継がれていたと考えるのが普通である。それらの歴史的偏見に基づく沖縄作戦であってみれば、沖縄県民への対処のしかたも当然変わってくるものであろう。
4 違法・無法の戦争動員
非戦闘員女性を戦場に動員
戦時動員については、法の改悪等で年齢の上限と下限を拡大して、動員態勢を敷いたが、沖縄においては、その時々の法が必ずしも守られていない。女子学徒動員にしても、戦場に看護要員として配置することはその年齢、身分(配属された野戦病院では、兵隊の身分として扱われていた)等からして違法といえよう。また、学徒動員以外でも、各地で地域の女子青年が簡単な訓練を受けて戦場に動員されている例もある。
少年の戦場動員
沖縄戦の後半、島尻では、12、3歳の少年が弾薬を前線に運ぶ要員に動員されているし、また、伝令として動員された証言もある。
在郷軍人の防衛隊組織動員
牛島司令官の命によって、各市町村単位に編成され、軍隊と共に行動したことが証言されている。戦場動員では主に弾薬運搬だった。これらのことは大本営でも逆に取り上げられ、後には法制化されていった経緯がある。
5 国体護持の戦争
以上みてきたとおり、沖縄戦は近代戦争の中でも、まれにみる残虐非道の戦争であった。そのような状況をつくった根本は、やはり、天皇の軍隊による戦争であったといえよう。沖縄戦のみならず、日中戦争や太平洋戦争のさまざまな場面で、天皇の軍隊は同様の状況を生み出している。
降伏のない軍隊は昭和天皇がつくった
天皇は戦況の推移を最もよく知っていたにもかかわらず、側近(近衛)の和平への進言に対して「もっと戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいとおもう。」といったり、「沖縄で勝てるという目算がありますか」に対して「統帥部は今度こそ大丈夫だといっている」と切り返している。更に念をおす近衛に対して「今度は確信があるようだ」と突っぱねている。
左翼の理論はおもしろい。
独ソ戦の中のスターリングラードの戦いでは、スターリンは、50万の住民のうち、数千人の住民を強制的に留めて、避難させなかった。この戦略的に重要な都市を守るためには住民を守るという名分が必要だったから。このうち最後まで生き残ったのは千人ほど。
ソ連軍の中でも数千人がスパイや逃亡の疑いで銃殺されている。
この戦いだけでソ連軍に100万以上の戦死者が出ているといわれているから、ソ連軍側とすれば、そのくらいの締め付けは必要だったのかもしれない。
この後、ソ連軍が反撃を始め、クルクスの大戦車戦、ドニエプル川渡河作戦が始まる。
これは メッセージ 1537 (u26699 さん)への返信です.
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