トピずれ(客死した遣唐使の墓誌発見)
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2004/10/10 23:02 投稿番号: [13705 / 49973]
中国・西安で遣唐使の墓誌発見
皇帝に仕えた日本人判明
--------------------------------------------------------------------------------
唐の都・長安のあった中国・西安で、阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として渡りながら、現地で亡くなった日本人留学生の墓誌が見つかった。その人生や、死を惜しんだ玄宗皇帝が高官の役職を贈ったことなどが記されていた。この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて。古代東アジアの交流や、遣唐使の実態を伝える前例のない発見といえる。10日、中国国営新華社通信が「西安晩報」の報道として伝えた。
西安の西北大学博物館が最近入手したもので、39.5センチ四方の石に、名前は「井真成」で「国号日本」など12行で171文字が刻まれていた。生まれつき優秀、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22(734)年に36歳で死去、魂は故郷に帰るだろう、といったことが記されている。
現存の実物資料としては国号「日本」が使用された最古の例となる。
共同通信によると、西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。
当時の遣唐使は十数年に一度の不定期。年齢から、717年の遣唐使に19歳で留学生として参加したとみられる。奈良に都を移してから初の遣唐使にあたる。仲麻呂や吉備真備、僧玄●(●は日へんに方)(げんぼう)ら557人が参加した回だ。
遣唐使の参加者は、唐で活躍した仲麻呂のほかは、日本で5位以上の官位を持つ参加者しか記録されていないため、この人物に該当する記述はなく、日本名などは分からない。
死後に皇帝から贈られたのは「尚衣奉御」という、従5品上の役職だった。中国の官位は1〜9品に分かれ、5品以上が皇帝の前に出ることができる殿上人。唐で役人として出世したほぼ同年齢の仲麻呂は、真成が死亡した年に従5品下に昇格しており、2人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。
墓誌には朝廷内の役職についていたことを示唆する記述はあるが、実際にどのような役職だったのかは記されていない。尚衣奉御は、皇帝の近くに仕える役職だった。
◇
氣賀澤保規・明治大教授による銘文の抄訳は以下の通り。
「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」
〈町田章・奈良文化財研究所所長(考古学)の話〉 阿倍仲麻呂とともに養老元年の遣唐使で行った留学生と見て間違いないだろう。遣唐使の中でも平安に入ってからのものは比較的記録が残っているが、奈良時代の遣唐使については続日本紀などに断片的に記録が残っているだけ。留学生についても、帰ってきて政治家や高僧として成功すれば伝記や紀行文の記録が残るが、若くして向こうに渡ったとすれば日本側の資料では「その他大勢」でしかなく、名前が残らないのも当然と言える。遣唐使の歴史を解明する上で、非常に重要な発見だ。
(10/10 22:04)
http://www.asahi.com/culture/update/1010/006.html
--------------------------------------------------------------------------------
唐の都・長安のあった中国・西安で、阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として渡りながら、現地で亡くなった日本人留学生の墓誌が見つかった。その人生や、死を惜しんだ玄宗皇帝が高官の役職を贈ったことなどが記されていた。この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて。古代東アジアの交流や、遣唐使の実態を伝える前例のない発見といえる。10日、中国国営新華社通信が「西安晩報」の報道として伝えた。
西安の西北大学博物館が最近入手したもので、39.5センチ四方の石に、名前は「井真成」で「国号日本」など12行で171文字が刻まれていた。生まれつき優秀、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22(734)年に36歳で死去、魂は故郷に帰るだろう、といったことが記されている。
現存の実物資料としては国号「日本」が使用された最古の例となる。
共同通信によると、西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。
当時の遣唐使は十数年に一度の不定期。年齢から、717年の遣唐使に19歳で留学生として参加したとみられる。奈良に都を移してから初の遣唐使にあたる。仲麻呂や吉備真備、僧玄●(●は日へんに方)(げんぼう)ら557人が参加した回だ。
遣唐使の参加者は、唐で活躍した仲麻呂のほかは、日本で5位以上の官位を持つ参加者しか記録されていないため、この人物に該当する記述はなく、日本名などは分からない。
死後に皇帝から贈られたのは「尚衣奉御」という、従5品上の役職だった。中国の官位は1〜9品に分かれ、5品以上が皇帝の前に出ることができる殿上人。唐で役人として出世したほぼ同年齢の仲麻呂は、真成が死亡した年に従5品下に昇格しており、2人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。
墓誌には朝廷内の役職についていたことを示唆する記述はあるが、実際にどのような役職だったのかは記されていない。尚衣奉御は、皇帝の近くに仕える役職だった。
◇
氣賀澤保規・明治大教授による銘文の抄訳は以下の通り。
「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」
〈町田章・奈良文化財研究所所長(考古学)の話〉 阿倍仲麻呂とともに養老元年の遣唐使で行った留学生と見て間違いないだろう。遣唐使の中でも平安に入ってからのものは比較的記録が残っているが、奈良時代の遣唐使については続日本紀などに断片的に記録が残っているだけ。留学生についても、帰ってきて政治家や高僧として成功すれば伝記や紀行文の記録が残るが、若くして向こうに渡ったとすれば日本側の資料では「その他大勢」でしかなく、名前が残らないのも当然と言える。遣唐使の歴史を解明する上で、非常に重要な発見だ。
(10/10 22:04)
http://www.asahi.com/culture/update/1010/006.html
これは メッセージ 1 (korea_is_mini_japan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4z9q7zbbkoc0a2ab4z9qbfma4nbb22ca1a2bg4bf7de_1/13705.html