アルゼンチン・かんしゃく話1
投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2007/03/26 21:20 投稿番号: [3567 / 6946]
チリのことはさておき、今回の「鮮奴に”かんしゃくおこるニダ!”と
言わせる話」はまずアルゼンチン北西部のサルタ州・フフイ州を訪れた話から
始まります。私が今回13年ぶりにここを訪れた理由は3つあり、
1、ユネスコ世界遺産に(前回訪問時は未だ登録されていなかった)登録されている、
ウマウアカ渓谷(フフイ州、50年代にシャンソン”花祭り”として世界的に
ヒットした歌の舞台となった渓谷)を再度訪れること。
2、サルタ州に住む友人達と13年ぶりに再会する。
3、フフイ州の小さな村ウキーアに永眠している日本人の方の墓参。
ちなみに私はこの方とは13年前の訪問時(1994年)に会話をしている。
3、の日本人、高橋喬さんについては「アルゼンチン日本人移民史」より
その経歴の要点のみを(長いので)抜粋しておきます↓
━高橋さんは1908年横浜生まれ、戦前に日本企業の派遣でアルゼンチンに。
戦後、その会社が閉鎖されたのを機に単身アルゼンチン北西部のトゥクマン州に
移動し以前から関心をもっていた陶芸を始めました。その後サルタ州に移り住み
自作の絵を売ったり教会の聖母像を修復したりして生計を立てていたそうです。
そのような仕事を通じて高橋さんの才能が次第にサルタで知られるようになり、
仕事もコンスタントに入ってくるようになったとか。
サルタでの生活基盤ができていた高橋さんに人生の転機が訪れたのが1963年頃、
以前から親交のあったアルゼンチン人陶芸家がフフイ州で工房を開く際に
高橋さんに協力を熱心に求めてきたそうです。人から頼まれたらイヤと言えない
高橋さんはサルタから隣のフフイ州に移り住むことを決心しました、時に
高橋さん55歳の時です。その後その友人の工房は州立中学に変わり、高橋さんは
美術担当の教師となっています。その後高橋さんの友人の陶芸家の息子がフフイ州の
小さな集落に民芸を学べる学校を設立、高橋さんはそこの教師として呼ばれました。
この学校はじきにフフイ州が買い取り州立小学校となり高橋さんは校長として
働くことになります。(私が今回訪れた時は校舎の跡しか残っていなかった、
校名はチュカレスナ州立小学校)その小学校は州立として認可されたとはいえ、
州が支給してくれたのは教師の給与のみ、高橋さんは自費で机、椅子、黒板を
買い揃え生徒のおやつ代まで出していたそうです。細々とスタートした学校でしたが、
高橋さんが科目を次第に増設し優れた教師を招いたので生徒も多く集まるようになり、
学校の運営も楽になっていったそうです。現在フフイ州を代表する民俗音楽家リカルド・
ビルカがまだ無名だった時に高橋さんは彼の才能を見抜き音楽教師として採用したとか。
高橋さんは13年間その学校の校長を務め、1983年頃に自身のやりたいことに専念しようと、
退職、その後半年ほどで小学校は問題が起きて閉鎖されてしまったそうです。
校長退職後、高橋さんはフフイ州ウマウアカ市を拠点に絵画た陶芸活動に専念、
その作品は多くの個人や公共施設に渡り沢山の人の目に触れる場所に置かれているものも
少なくありません。(フフイ州の州都フフイ市役所にも)
1985年には当時の在アルゼンチン日本大使の要請でブエノスアイレスの日本大使館
文化センターで高橋さんの個展が開かれています。
1998年、高橋さんはこの世を去り、晩年を送ったフフイ州のウキーアという小さな村の
村営墓地に永眠しています。
(続く)
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倭奴が予選通過すれば
2005/ 3/28 11:29
投稿者: shibural7 (男性/海外、静かな朝の国、高麗)
1億円やる
韓国が1位通過できなかったら1億円やる
1億円って誰が誰に払う約束だった
2006/12/16 13:46
投稿者: shibural7
?
言わせる話」はまずアルゼンチン北西部のサルタ州・フフイ州を訪れた話から
始まります。私が今回13年ぶりにここを訪れた理由は3つあり、
1、ユネスコ世界遺産に(前回訪問時は未だ登録されていなかった)登録されている、
ウマウアカ渓谷(フフイ州、50年代にシャンソン”花祭り”として世界的に
ヒットした歌の舞台となった渓谷)を再度訪れること。
2、サルタ州に住む友人達と13年ぶりに再会する。
3、フフイ州の小さな村ウキーアに永眠している日本人の方の墓参。
ちなみに私はこの方とは13年前の訪問時(1994年)に会話をしている。
3、の日本人、高橋喬さんについては「アルゼンチン日本人移民史」より
その経歴の要点のみを(長いので)抜粋しておきます↓
━高橋さんは1908年横浜生まれ、戦前に日本企業の派遣でアルゼンチンに。
戦後、その会社が閉鎖されたのを機に単身アルゼンチン北西部のトゥクマン州に
移動し以前から関心をもっていた陶芸を始めました。その後サルタ州に移り住み
自作の絵を売ったり教会の聖母像を修復したりして生計を立てていたそうです。
そのような仕事を通じて高橋さんの才能が次第にサルタで知られるようになり、
仕事もコンスタントに入ってくるようになったとか。
サルタでの生活基盤ができていた高橋さんに人生の転機が訪れたのが1963年頃、
以前から親交のあったアルゼンチン人陶芸家がフフイ州で工房を開く際に
高橋さんに協力を熱心に求めてきたそうです。人から頼まれたらイヤと言えない
高橋さんはサルタから隣のフフイ州に移り住むことを決心しました、時に
高橋さん55歳の時です。その後その友人の工房は州立中学に変わり、高橋さんは
美術担当の教師となっています。その後高橋さんの友人の陶芸家の息子がフフイ州の
小さな集落に民芸を学べる学校を設立、高橋さんはそこの教師として呼ばれました。
この学校はじきにフフイ州が買い取り州立小学校となり高橋さんは校長として
働くことになります。(私が今回訪れた時は校舎の跡しか残っていなかった、
校名はチュカレスナ州立小学校)その小学校は州立として認可されたとはいえ、
州が支給してくれたのは教師の給与のみ、高橋さんは自費で机、椅子、黒板を
買い揃え生徒のおやつ代まで出していたそうです。細々とスタートした学校でしたが、
高橋さんが科目を次第に増設し優れた教師を招いたので生徒も多く集まるようになり、
学校の運営も楽になっていったそうです。現在フフイ州を代表する民俗音楽家リカルド・
ビルカがまだ無名だった時に高橋さんは彼の才能を見抜き音楽教師として採用したとか。
高橋さんは13年間その学校の校長を務め、1983年頃に自身のやりたいことに専念しようと、
退職、その後半年ほどで小学校は問題が起きて閉鎖されてしまったそうです。
校長退職後、高橋さんはフフイ州ウマウアカ市を拠点に絵画た陶芸活動に専念、
その作品は多くの個人や公共施設に渡り沢山の人の目に触れる場所に置かれているものも
少なくありません。(フフイ州の州都フフイ市役所にも)
1985年には当時の在アルゼンチン日本大使の要請でブエノスアイレスの日本大使館
文化センターで高橋さんの個展が開かれています。
1998年、高橋さんはこの世を去り、晩年を送ったフフイ州のウキーアという小さな村の
村営墓地に永眠しています。
(続く)
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倭奴が予選通過すれば
2005/ 3/28 11:29
投稿者: shibural7 (男性/海外、静かな朝の国、高麗)
1億円やる
韓国が1位通過できなかったら1億円やる
1億円って誰が誰に払う約束だった
2006/12/16 13:46
投稿者: shibural7
?
これは メッセージ 1 (shibural7 さん)への返信です.
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