日露戦争とアルゼンチン
投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2004/05/09 20:35 投稿番号: [1857 / 6946]
在アルゼンチンの日本大使館のHPで日露戦争とアルゼンチンのエピソードをみつけました。コピーです。
*日本海海戦と巡洋艦「日進」、「春日」
帝政ロシアとの関係が風雲急を告げつつあった20世紀初頭、予想されるバルティック艦隊との海戦に備え、
日本海軍にとり海軍力の増強は焦眉の急であった。日露開戦の前年、アルゼンチンは当時イタリアに建造発注し
ほとんど完成していた最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を売却しても良いとオファーし、
日本は直ぐさま交渉しこれに妥結した。最初に交渉を行ったのは、当時アルゼンチンを兼轄していた
駐ブラジル代理公使堀口九万一(詩人堀口大学の尊父)である。イタリアからこの二艦を横須賀に無事に
回航する大役を果たしたのは鈴木貫太郎海軍中佐(太平洋戦争終戦時の総理大臣)で、
二艦は日露開戦の6日後の1904(明治37)年2月16日、国民歓喜の中横須賀に到着した。
それぞれ「日進」、「春日」と命名されて、旗艦「三笠」の隷下に入り、日本海海戦で戦功を挙げた。
アルゼンチンが日本に示した好意の背景には、1898年に結ばれていた日亜友好通商航海条約や、
その翌年に訪日して大歓迎を受けた海軍練習艦「サルミエント」のベトペデル艦長が
海軍大臣になっていたことなどがある。因みに、その後、「日進」は1935年(昭和10)年に廃艦となり、
「春日」は1945年に米軍機の爆撃で沈没している。
*観戦武官ドメック・ガルシア
前記の装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」をイタリアにおいて日本側に引き渡す際の
アルゼンチン側代表であったドメック・ガルシア海軍大佐は、その後、命を受け日本に行き、
日本海海戦において観戦武官として「日進」に陪乗した。その後もドメック・ガルシア大佐は日本に残り、
膨大な報告書を本国に提出した。この報告書は単なる海戦の記録に留まらず新興国日本の海軍事情を
具に調査・分析したものであった。更に、この報告書は80年の歳月を経て海上自衛隊の
教育用資料として邦訳され、更に、日亜修好100周年を記念して1998年に日本アルゼンチン協会から
「アルゼンティン海戦武官の記録」として公刊された。ドメック・ガルシア大佐は1932−38年には
海軍大臣となり、退役後はアルゼンチン日本文化協会の会長として両国友好に余生を尽くした。
御子孫の家には、ドメック・ガルシア大佐が明治天皇から送られた銀花瓶と金蒔絵の重箱が家宝として保存されている。
*ペロン大統領夫妻と日本
アルゼンチンは荒廃と飢えに苦しむ敗戦後の日本に援助の手を差し伸べてくれた国のひとつであった。
1946年に大統領に就任したペロン大統領は、日露戦争の研究を通じて日本に高い関心を持っていた。
大統領夫人エバ・ペロンは夫が大統領に就任してから「エバ・ペロン」財団を通じて慈善活動を行い、
その一環として1949年と1950年に食糧、衣料品などを日本に援助している。
また、アルゼンチン国内ではペロン大統領夫妻が、邦人のカトリック受洗者850名の代父母になるなど、
日本と日本人に対して厚い好意を示した。
以下は日露戦争とは関係ありませんが・・。
*サン・フランシスコ講和条約
第二次大戦中、アルゼンチンは連合国側の早期参戦への圧力にもかかわらず、終戦間近の1945年3月26日まで
対日宣戦布告を行わなかった。1951年のサン・フランシスコ講和条約についてもアルゼンチンは
日本の国際社会への復帰を支持し、同年12月同講和条約はアルゼンチンの議会でも批准された。
この時、当時の野党急進党のフロンディシ下院議員らがその批准に反対したが、その理由は
「講和条約は敗戦国に厳しい勝者の条約であって、冷戦下における米国の戦略の一環に他ならず」というもので、
日本に同情したもっと寛大な講和条件であるべきというのが理由のひとつであった。
フロンディシ下院議員は、1958年に大統領となり、1961年にはアルゼンチンの大統領として初めて訪日している。
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投稿者: shibural7 (1歳/男性/kr)
良く周りから言われるが、
私の顔はポール ニューマンに似ってて
彼に負けない位美しい瞳持ってるんですて。
*日本海海戦と巡洋艦「日進」、「春日」
帝政ロシアとの関係が風雲急を告げつつあった20世紀初頭、予想されるバルティック艦隊との海戦に備え、
日本海軍にとり海軍力の増強は焦眉の急であった。日露開戦の前年、アルゼンチンは当時イタリアに建造発注し
ほとんど完成していた最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を売却しても良いとオファーし、
日本は直ぐさま交渉しこれに妥結した。最初に交渉を行ったのは、当時アルゼンチンを兼轄していた
駐ブラジル代理公使堀口九万一(詩人堀口大学の尊父)である。イタリアからこの二艦を横須賀に無事に
回航する大役を果たしたのは鈴木貫太郎海軍中佐(太平洋戦争終戦時の総理大臣)で、
二艦は日露開戦の6日後の1904(明治37)年2月16日、国民歓喜の中横須賀に到着した。
それぞれ「日進」、「春日」と命名されて、旗艦「三笠」の隷下に入り、日本海海戦で戦功を挙げた。
アルゼンチンが日本に示した好意の背景には、1898年に結ばれていた日亜友好通商航海条約や、
その翌年に訪日して大歓迎を受けた海軍練習艦「サルミエント」のベトペデル艦長が
海軍大臣になっていたことなどがある。因みに、その後、「日進」は1935年(昭和10)年に廃艦となり、
「春日」は1945年に米軍機の爆撃で沈没している。
*観戦武官ドメック・ガルシア
前記の装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」をイタリアにおいて日本側に引き渡す際の
アルゼンチン側代表であったドメック・ガルシア海軍大佐は、その後、命を受け日本に行き、
日本海海戦において観戦武官として「日進」に陪乗した。その後もドメック・ガルシア大佐は日本に残り、
膨大な報告書を本国に提出した。この報告書は単なる海戦の記録に留まらず新興国日本の海軍事情を
具に調査・分析したものであった。更に、この報告書は80年の歳月を経て海上自衛隊の
教育用資料として邦訳され、更に、日亜修好100周年を記念して1998年に日本アルゼンチン協会から
「アルゼンティン海戦武官の記録」として公刊された。ドメック・ガルシア大佐は1932−38年には
海軍大臣となり、退役後はアルゼンチン日本文化協会の会長として両国友好に余生を尽くした。
御子孫の家には、ドメック・ガルシア大佐が明治天皇から送られた銀花瓶と金蒔絵の重箱が家宝として保存されている。
*ペロン大統領夫妻と日本
アルゼンチンは荒廃と飢えに苦しむ敗戦後の日本に援助の手を差し伸べてくれた国のひとつであった。
1946年に大統領に就任したペロン大統領は、日露戦争の研究を通じて日本に高い関心を持っていた。
大統領夫人エバ・ペロンは夫が大統領に就任してから「エバ・ペロン」財団を通じて慈善活動を行い、
その一環として1949年と1950年に食糧、衣料品などを日本に援助している。
また、アルゼンチン国内ではペロン大統領夫妻が、邦人のカトリック受洗者850名の代父母になるなど、
日本と日本人に対して厚い好意を示した。
以下は日露戦争とは関係ありませんが・・。
*サン・フランシスコ講和条約
第二次大戦中、アルゼンチンは連合国側の早期参戦への圧力にもかかわらず、終戦間近の1945年3月26日まで
対日宣戦布告を行わなかった。1951年のサン・フランシスコ講和条約についてもアルゼンチンは
日本の国際社会への復帰を支持し、同年12月同講和条約はアルゼンチンの議会でも批准された。
この時、当時の野党急進党のフロンディシ下院議員らがその批准に反対したが、その理由は
「講和条約は敗戦国に厳しい勝者の条約であって、冷戦下における米国の戦略の一環に他ならず」というもので、
日本に同情したもっと寛大な講和条件であるべきというのが理由のひとつであった。
フロンディシ下院議員は、1958年に大統領となり、1961年にはアルゼンチンの大統領として初めて訪日している。
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投稿者: shibural7 (1歳/男性/kr)
良く周りから言われるが、
私の顔はポール ニューマンに似ってて
彼に負けない位美しい瞳持ってるんですて。
これは メッセージ 1854 (chonkochonkorin さん)への返信です.
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