コミュニケーションの不在 Re: 「常識」論
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2008/09/20 01:50 投稿番号: [98292 / 99628]
また虚しく言い張ってるだけの投稿が長々と続いています。
どうやら、「安泰」を「国体護持」と理解しなかった私のコミュニケーション能力の欠如が一方的に糾弾されてるようです。しかし、それをいうなら、「民営化」論の段階で「安泰」を「安泰」と“解釈”していると見抜けないコミュニケーション能力こそが問題でしょう。それはテキストとして明晰に言語表現されているのに対して、ヒダリノさんが問題視する私の「失点」対象は、(テキスト以前の)狂信ウヨクの内的思考様式にとどまるからです。
「国体護持」はもちろん、「天皇家の安泰」という言葉遣い自体、一般には馴染みのないものです。それを口にした途端、この人ウヨクかしらん? なんだか目がいっちゃってるわ、おかしな人! ぐらいの抑えた反応を常識的相手に読み取ることが容易です。
「空気」を読め、とさかんに言われます。昨今流行のこういう言い方自体がすでに日本型ムラ社会の発想で有害ですが、それはさておき、空気はテキストではありません。私は、テキストとして自己認識を明晰しています。それすら読み取れなかった責任は、「空気」という無の見逃しに比べたらはるかに重罪です。ましてや狂信ウヨクという特殊な人の特殊な「空気」を読むには、私の感性は凡庸すぎます。
なんであれ、「国体護持」と突如変更されました。自分はそういう意味で使ってきたと虚しく頑張っても議論においては無効であります。
ところでコミュニケーションの不在(困難)についてです。
映画『バベル』はその主題を直裁に描出します。鑑賞なさったはずの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も、つまるところ、それを描いています。ベルイマンの“神の沈黙”、アントニオーニの“愛の不毛”、これらは映画のタイトルではなく主題を簡潔に表してるのですが、こういうのもぜんぶ、コミュニケーションの不在(困難)を鋭く描写します。モニカ・ヴィッティの叫びは他者の声ではないのです。あのチャップリンが絶賛したという『こわれゆく女』のジーナ・ローランズに共振できる感性が世界のみんなにあるというのは、それだけ現代人が抱える深刻な主題の普遍性を物語っています。
それを、コミュニケーションの困難にいまさら大袈裟に驚くというのは、逆にいうと、これまで人とのコミュニケーションが不在であったという告白にほかなりません。それか、きわめて単純な人間関係の中にいたか、どちらかだと思われます。
世界に衝撃を与えたビョークの熱演を見て、
普通の人が殺人するんだから移民って怖いな、
なんて没感性な「感想」しか吐けない人に、コミュニケーションの不在(困難)を語るのは、それこそ困難です。
今世紀最高の文芸批評家の一人バフチンはこう書いています。
ドストエフスキーの長編ではあらゆるものが、中心点として対話へと、対話的対立へと収斂する。そこではすべてが手段であり、対話が目的なのである。一つの声は何も終わらせないし、何も解決しない。二つの声が生の最小単位であり、存在の最小単位なのである。
『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン
偉大なバフチンに失礼を承知で書きますが、人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主題も、ここに収斂します。私は、自分の正体を他人に知られてみろ、と何度も促しています。本当の「生」「存在」はそこを起点とします。ヒダリノさんは、まだそこに至っていないのです。(天皇なんてどうでもいいのです。あんなの今という時代では税金泥棒という観点以外我々に何の影響も与えない赤の他人です)
今回の論争をまとめると、そういうことですね。
どうやら、「安泰」を「国体護持」と理解しなかった私のコミュニケーション能力の欠如が一方的に糾弾されてるようです。しかし、それをいうなら、「民営化」論の段階で「安泰」を「安泰」と“解釈”していると見抜けないコミュニケーション能力こそが問題でしょう。それはテキストとして明晰に言語表現されているのに対して、ヒダリノさんが問題視する私の「失点」対象は、(テキスト以前の)狂信ウヨクの内的思考様式にとどまるからです。
「国体護持」はもちろん、「天皇家の安泰」という言葉遣い自体、一般には馴染みのないものです。それを口にした途端、この人ウヨクかしらん? なんだか目がいっちゃってるわ、おかしな人! ぐらいの抑えた反応を常識的相手に読み取ることが容易です。
「空気」を読め、とさかんに言われます。昨今流行のこういう言い方自体がすでに日本型ムラ社会の発想で有害ですが、それはさておき、空気はテキストではありません。私は、テキストとして自己認識を明晰しています。それすら読み取れなかった責任は、「空気」という無の見逃しに比べたらはるかに重罪です。ましてや狂信ウヨクという特殊な人の特殊な「空気」を読むには、私の感性は凡庸すぎます。
なんであれ、「国体護持」と突如変更されました。自分はそういう意味で使ってきたと虚しく頑張っても議論においては無効であります。
ところでコミュニケーションの不在(困難)についてです。
映画『バベル』はその主題を直裁に描出します。鑑賞なさったはずの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も、つまるところ、それを描いています。ベルイマンの“神の沈黙”、アントニオーニの“愛の不毛”、これらは映画のタイトルではなく主題を簡潔に表してるのですが、こういうのもぜんぶ、コミュニケーションの不在(困難)を鋭く描写します。モニカ・ヴィッティの叫びは他者の声ではないのです。あのチャップリンが絶賛したという『こわれゆく女』のジーナ・ローランズに共振できる感性が世界のみんなにあるというのは、それだけ現代人が抱える深刻な主題の普遍性を物語っています。
それを、コミュニケーションの困難にいまさら大袈裟に驚くというのは、逆にいうと、これまで人とのコミュニケーションが不在であったという告白にほかなりません。それか、きわめて単純な人間関係の中にいたか、どちらかだと思われます。
世界に衝撃を与えたビョークの熱演を見て、
普通の人が殺人するんだから移民って怖いな、
なんて没感性な「感想」しか吐けない人に、コミュニケーションの不在(困難)を語るのは、それこそ困難です。
今世紀最高の文芸批評家の一人バフチンはこう書いています。
ドストエフスキーの長編ではあらゆるものが、中心点として対話へと、対話的対立へと収斂する。そこではすべてが手段であり、対話が目的なのである。一つの声は何も終わらせないし、何も解決しない。二つの声が生の最小単位であり、存在の最小単位なのである。
『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン
偉大なバフチンに失礼を承知で書きますが、人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主題も、ここに収斂します。私は、自分の正体を他人に知られてみろ、と何度も促しています。本当の「生」「存在」はそこを起点とします。ヒダリノさんは、まだそこに至っていないのです。(天皇なんてどうでもいいのです。あんなの今という時代では税金泥棒という観点以外我々に何の影響も与えない赤の他人です)
今回の論争をまとめると、そういうことですね。
これは メッセージ 98287 (hidarino5 さん)への返信です.
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