Re: 「公正」者の正体① Re: 日本人の幸福
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2008/04/07 16:47 投稿番号: [97845 / 99628]
>高麗侵攻前のモンゴル帝国の版図と高麗侵攻後のモンゴル帝国の版図を比較してみれば、網野や柄谷の言ってることが嘘八百だということは、一目瞭然でしょ
うーん、私の「悪い」頭では「一目瞭然」とはなりません。帝国は一度侵略戦争に難儀するとその後二度と領土を拡大できなくなる、といった歴史の法則でもあるのでしょうか?
その後の帝国の勢力圏の拡大から、ある辺境地域での戦闘状況を過少に断定して語るのは、素朴な「頭」の推論にとどまります。
柄谷や網野の書物から引きましたが、読書体験の乏しいアイタタタタさんが頼りとするウィキペディアにもこうあります。
1231年から蒙古(後の元)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗王に入朝を命じたが、蒙古を野蛮人と見ていた高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を奪われて双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。 こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
もう一冊、歴史教科書から引いてみます。
モンゴルの侵略に対して、高麗では崔氏武臣政権を中心に抗戦した。特に、このときまで支配層に抵抗していた草賊までもモンゴルと戦い、忠臣城では賤民が城を守った。1232年に首都を江華島に遷し、人々を周辺の山城や島に移住させて長期戦に備えた。モンゴルの侵略は約30年間続いたが、高麗はこれを防いだ。
武臣政権の崩壊後、開京遷都に反発した武臣政権の主力部隊でった三別抄が反乱を起こした。三別抄は根拠地を珍島に遷し、開京の高麗とモンゴルを相手に抗戦した。そうしたなか、それまでモンゴルと戦っていた一般民衆がこれに呼応し、力を得た三別抄は朝鮮半島南部の海岸地方を掌握した
『日韓交流の歴史』歴史教育研究会(日本)歴史教科書研究会(韓国)編
高麗がモンゴルに抵抗したという記述はいくらでも見つかりそうです。となると、これが定説で、むしろ、changamire_lozi さんの意見のほうが稀なのかもしれません。
そのへんはよく知りませんが、
>鹿を見ても、“著名な歴史学者”や“世界レベルの知性”と称する連中が「これは馬です」と言っていたら簡単に信じてしまうの?
とか書かれてる以上、私も、正体不明の匿名さんの聞き慣れぬご意見を、しかも学者の引用すらない段階で、その無責任な発言を、「簡単に信じてしまう」ことはできないわけですね。
誤解を避けるためにいっておきますが、私は網野や柄谷やウィキペディアの記述者や教科書の記述者のほうが絶対に正しいとはいってません。ひょっとしたら、その逆かもしれない。
ですが、現段階では、かれらの「定説」を覆すだけの材料も理論も提出されてない、とそういうことですね。
うーん、私の「悪い」頭では「一目瞭然」とはなりません。帝国は一度侵略戦争に難儀するとその後二度と領土を拡大できなくなる、といった歴史の法則でもあるのでしょうか?
その後の帝国の勢力圏の拡大から、ある辺境地域での戦闘状況を過少に断定して語るのは、素朴な「頭」の推論にとどまります。
柄谷や網野の書物から引きましたが、読書体験の乏しいアイタタタタさんが頼りとするウィキペディアにもこうあります。
1231年から蒙古(後の元)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗王に入朝を命じたが、蒙古を野蛮人と見ていた高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を奪われて双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。 こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
もう一冊、歴史教科書から引いてみます。
モンゴルの侵略に対して、高麗では崔氏武臣政権を中心に抗戦した。特に、このときまで支配層に抵抗していた草賊までもモンゴルと戦い、忠臣城では賤民が城を守った。1232年に首都を江華島に遷し、人々を周辺の山城や島に移住させて長期戦に備えた。モンゴルの侵略は約30年間続いたが、高麗はこれを防いだ。
武臣政権の崩壊後、開京遷都に反発した武臣政権の主力部隊でった三別抄が反乱を起こした。三別抄は根拠地を珍島に遷し、開京の高麗とモンゴルを相手に抗戦した。そうしたなか、それまでモンゴルと戦っていた一般民衆がこれに呼応し、力を得た三別抄は朝鮮半島南部の海岸地方を掌握した
『日韓交流の歴史』歴史教育研究会(日本)歴史教科書研究会(韓国)編
高麗がモンゴルに抵抗したという記述はいくらでも見つかりそうです。となると、これが定説で、むしろ、changamire_lozi さんの意見のほうが稀なのかもしれません。
そのへんはよく知りませんが、
>鹿を見ても、“著名な歴史学者”や“世界レベルの知性”と称する連中が「これは馬です」と言っていたら簡単に信じてしまうの?
とか書かれてる以上、私も、正体不明の匿名さんの聞き慣れぬご意見を、しかも学者の引用すらない段階で、その無責任な発言を、「簡単に信じてしまう」ことはできないわけですね。
誤解を避けるためにいっておきますが、私は網野や柄谷やウィキペディアの記述者や教科書の記述者のほうが絶対に正しいとはいってません。ひょっとしたら、その逆かもしれない。
ですが、現段階では、かれらの「定説」を覆すだけの材料も理論も提出されてない、とそういうことですね。
これは メッセージ 97844 (changamire_lozi さん)への返信です.
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