グローバリズムと天皇② Re: 日本「マンセ
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2008/03/21 00:03 投稿番号: [97685 / 99628]
次にいつもの皇室絶対主義ですが、これらは完全に妄想です。
天皇に「心」や「魂」を委ねるのは右翼の精神構造であって、それを傍若無人に日本人全体へと遍在化してはなりません。右派系巨大マスコミの皇室礼賛キャンペーンや戦前思考の残滓がそれとなく人々の「心」に染み込み、なんとなく皇室は大切ぐらいの些細な感情の存在はいくらか見受けられますが、それはイデオロギー(洗脳)効果の微細な顕現にすぎず、失礼を承知でいえば、その辺の社会学的考察が足りない無垢な人々なら疑問もわかないわけです。
断言します。天皇礼賛、金王朝礼賛、麻原礼賛、これらはまったく等価です。
アレクサンドル・ソクーロフの偉大な作品『太陽」を見れば、天皇陛下様!の洗脳が解け、「裕仁叔父様!」へと進歩できる、と前に教えてあげました。
映画評論家としても名高い四方田犬彦から引きます。
ソクーロフが描く裕仁とは、大元帥の制服に身を固めた軍国主義の体現者でもなければ、謎めいた言辞を発する神聖不可侵な存在でもない。それはむしろサミュエル・ベケットの小説にしばしば登場する、内気で孤独で、周囲から理解されずにいる中年男を連想させる 雑誌『世界』2006年9月号
『太陽』で語られているのは、あらゆる脱神話化を施された個人をめぐる考察である。なるほどそれは日本敗戦当時の、あるいは現在にいたるまでの日本人にとって窺い知ることの適わないものであり、その意味で神話破壊の意義は確かに認められる。たとえば1945年8月15日に玉音放送が流されたとき、もしそこにTVが存在していたならどうなっていただろうと、映画監督の大島渚は『体験的戦後映像論』で述懐している。
「もしあのときTVが存在したならば 〜(中略)〜 もしあの放送がテレビを通してなされたのであれば、たとえあの声がああいう声であったとしても、国民は声ではなく天皇の表情から、なんらかの人間的な感情を読みとってしまっただろう」 雑誌『世界』2006年9月号
思想家でも芸術家でもない、その上自分とは無関係な、ただのその辺のオジサンやその人を中心とした家族を尊敬できる、かれらから「心」「魂」の満足を得られる、というのは右翼と呼ばれる特殊な人たちの特殊な発想かもしれませんが、自分たちの精神的満足を他者(他の日本人)に強制するなら、金王朝の北朝鮮との完全な類似、または戦前日本回帰「思想」だと指摘されます。
もう少し未来的視野のもと、この危険「思想」を考えるなら、この場合の「日本人」とは何であるかという点に尽きます。
グローバルな世界構造を是認される以上、外国人の流入、国際結婚、等によるこれまで以上の他民族国家日本が想定されます。その場合、天皇タブーすら共有しないこれらの人々はどう扱われるのか、ここが重要なのです。
一例を出すなら、名前を忘れましたが、Jリーグのブラジル出身選手が日本代表に入りたいということで気化申請中だといいます。そんな彼の「魂」「心」に、天皇なんてわずかも介入する余地などないことは自明です。そういう人はどうなるのか?
結局、自己愛史観(=皇国史観)に心酔して、天皇を否定するやつは日本人の「魂」を否定していると金切り声で叫ぶ単細胞は、彼のような存在を非国民だの反日だのと括るわけです。
それでも彼の場合、ちょうど小熊が指摘したグローバル社会に受益者(「特殊技能をもつ」「スポーツ選手」)に該当し、その意味では日本に居場所が十分なぐらい用意されています。問題なのは、小熊が受益層に含めた「移民労働者になる下層の人」たちです。かれらは特殊な能力で日本に目立った利益をもたらさないが、やがて日本人になっていく可能性が認められます。
天皇イデオロギーとは、そういう人たちを排除する暴力装置として機能する以外なにもありません。
つまり、今回の狂信ウヨクさんの投稿では、戦前の過ちから謙虚に学ぶという歴史学的姿勢の根源的な欠落が指摘できるわけですね。
天皇に「心」や「魂」を委ねるのは右翼の精神構造であって、それを傍若無人に日本人全体へと遍在化してはなりません。右派系巨大マスコミの皇室礼賛キャンペーンや戦前思考の残滓がそれとなく人々の「心」に染み込み、なんとなく皇室は大切ぐらいの些細な感情の存在はいくらか見受けられますが、それはイデオロギー(洗脳)効果の微細な顕現にすぎず、失礼を承知でいえば、その辺の社会学的考察が足りない無垢な人々なら疑問もわかないわけです。
断言します。天皇礼賛、金王朝礼賛、麻原礼賛、これらはまったく等価です。
アレクサンドル・ソクーロフの偉大な作品『太陽」を見れば、天皇陛下様!の洗脳が解け、「裕仁叔父様!」へと進歩できる、と前に教えてあげました。
映画評論家としても名高い四方田犬彦から引きます。
ソクーロフが描く裕仁とは、大元帥の制服に身を固めた軍国主義の体現者でもなければ、謎めいた言辞を発する神聖不可侵な存在でもない。それはむしろサミュエル・ベケットの小説にしばしば登場する、内気で孤独で、周囲から理解されずにいる中年男を連想させる 雑誌『世界』2006年9月号
『太陽』で語られているのは、あらゆる脱神話化を施された個人をめぐる考察である。なるほどそれは日本敗戦当時の、あるいは現在にいたるまでの日本人にとって窺い知ることの適わないものであり、その意味で神話破壊の意義は確かに認められる。たとえば1945年8月15日に玉音放送が流されたとき、もしそこにTVが存在していたならどうなっていただろうと、映画監督の大島渚は『体験的戦後映像論』で述懐している。
「もしあのときTVが存在したならば 〜(中略)〜 もしあの放送がテレビを通してなされたのであれば、たとえあの声がああいう声であったとしても、国民は声ではなく天皇の表情から、なんらかの人間的な感情を読みとってしまっただろう」 雑誌『世界』2006年9月号
思想家でも芸術家でもない、その上自分とは無関係な、ただのその辺のオジサンやその人を中心とした家族を尊敬できる、かれらから「心」「魂」の満足を得られる、というのは右翼と呼ばれる特殊な人たちの特殊な発想かもしれませんが、自分たちの精神的満足を他者(他の日本人)に強制するなら、金王朝の北朝鮮との完全な類似、または戦前日本回帰「思想」だと指摘されます。
もう少し未来的視野のもと、この危険「思想」を考えるなら、この場合の「日本人」とは何であるかという点に尽きます。
グローバルな世界構造を是認される以上、外国人の流入、国際結婚、等によるこれまで以上の他民族国家日本が想定されます。その場合、天皇タブーすら共有しないこれらの人々はどう扱われるのか、ここが重要なのです。
一例を出すなら、名前を忘れましたが、Jリーグのブラジル出身選手が日本代表に入りたいということで気化申請中だといいます。そんな彼の「魂」「心」に、天皇なんてわずかも介入する余地などないことは自明です。そういう人はどうなるのか?
結局、自己愛史観(=皇国史観)に心酔して、天皇を否定するやつは日本人の「魂」を否定していると金切り声で叫ぶ単細胞は、彼のような存在を非国民だの反日だのと括るわけです。
それでも彼の場合、ちょうど小熊が指摘したグローバル社会に受益者(「特殊技能をもつ」「スポーツ選手」)に該当し、その意味では日本に居場所が十分なぐらい用意されています。問題なのは、小熊が受益層に含めた「移民労働者になる下層の人」たちです。かれらは特殊な能力で日本に目立った利益をもたらさないが、やがて日本人になっていく可能性が認められます。
天皇イデオロギーとは、そういう人たちを排除する暴力装置として機能する以外なにもありません。
つまり、今回の狂信ウヨクさんの投稿では、戦前の過ちから謙虚に学ぶという歴史学的姿勢の根源的な欠落が指摘できるわけですね。
これは メッセージ 97675 (hidarino5 さん)への返信です.
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