> qm0x0mpさん
投稿者: netcitizenmaster 投稿日時: 2003/02/20 02:06 投稿番号: [76247 / 99628]
>俺は気持ちを量として量ることは不可能であると考えるが。
アイデンティティとなる各要素は、通常は有る程度事前に優先度をもうけているでしょう。
なんらかの行動を取る場合、行動を取る環境において、制約条件が異なるため、その制約と自己の優先度を鑑みた行動をとるものと思っています。
感情を量で示すというのは、うまい言い方が他にないというのもありますが、気持ちの強さ(関心の高さでもいいですね)として捉えていただければよろしいかと思います。
>都合の良いところで在日をアイデンティティーとする輩もいることは否めない。
その点は私も同意します。
ただ不必要に主張するのは少しばかげていると思います。
日本人と話す場合でも、韓国人としての立場を明確にしないと話ができない局面があったり、また、日本人が日本人であることをアイデンティティとする場合における対極として用いる必要はあると思います。
私もこの限りにおいて、使用することがあります。(Yahoo上の私はそう。)
>良くも悪くもそれが日本人としての自然なアイデンティティーであろう。
同様に韓国人の場合でも、韓国人としての自然なアイデンティティはあるでしょう。しかし、そのアイデンティティに高い優先度を設けて行動するといった(例えば反日感覚といった)行為には愚かなものが多いのは事実かと思います。
>「私には祖国がありません」
時に俺はそんな逃げ口実が羨ましく思うときさえもある。
もちろんそれはどちらが良いのかという比較ではない。
ただ、それが「被害」としての主張となると頭に来るが。
在日にとっては、これは当初は"環境的制約"となり、この制約に対してどのように考え、行動するかが個々人の課題なのです。
母国を愛する者、日本を愛する者、双方から独立した立場をとろうとする者、まちまちですね。
こういった制約を克服する課程で、血の起源・文化・言語などを習得することは間違いではないのですが、こういった課程において偏狂的であったり歪曲じみたことを学んでしまうことは悲劇となりますね。
「被害」という考え方に至ると、そういう学び方をしてしまった個人にとってはマイナス以外のなにものでもないのですが。
また個々人で意識にばらつきがあることも問題ですね。
これは メッセージ 76225 (qm0x0mp さん)への返信です.
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