君が代
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/29 16:51 投稿番号: [61699 / 99628]
君が代
きみがよ
日本の国歌としてうたわれている歌曲。作曲は奥好義と林広季の合作したものを、林広守が選定した。歌詞は「古今和歌集」の「よみ人しらず」の歌をあらためたもの。曲は雅楽の壱越調律旋法で作曲されており、皇室の公事では雅楽の管弦で演奏することが多い。なお、洋楽器の演奏によるハーモニーは、ドイツ人のエッケルトがつけた。
1880年(明治13)の天長節(明治天皇の誕生日にあたる)に初演奏。
IV 日本の国歌「君が代」 1999年(平成11)8月13日に、「国旗及び国歌に関する法律」が公布され、同日に施行された。これにより、法律レベルで国歌が「君が代」であることが明定された(同法2条、別記第二)。
1 「君が代」の歴史 「君が代」は、古今和歌集の「題しらず読人しらず」の賀歌「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔(こけ)のむすまで」に、その淵源がもとめられるとされる。「わが君」の使われ方は、天皇に対してだけでなく、身分の高い人ならびに年長者にもちいられていた。その後、この歌が知られるとともに、わが君が「君が代」とされて広まった。
日本も、明治になると、近代国家としての体をなす必要にせまられた。国歌については、1869年(明治2)に、イギリス公使館護衛歩兵隊軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンから、国歌に関する問い合わせがあり、それに大山巌が古歌の「君が代」をしめしたことにはじまるとされる。海軍軍楽隊雇教師(→ お雇い外国人)となったフェントンがそれに作曲をしたが、のちに海軍省から楽譜を雅楽の音節へ改訂するよう建議がなされた。
フェントンの後任として海軍省雇音楽教師となったドイツ人フランツ・エッケルトは、宮内省雅楽部とともにその選定にかかわり、編曲をおこなった。そして、「国歌」として1880年11月3日に天皇の前で奏楽されたといわれる。それに対して、文部省ではことなった動きがみられたが、結局は、小学校において祝日大祭日の儀式における唱歌として「君が代」が告示された。このようにして、明治20年代中ごろから「君が代」が海軍、宮内省、文部省などの活動を通じて「国歌」となったといえよう。
2 法定化への経過 明治憲法下で、「君が代」は事実上国歌としてとりあつかわれていたが、法的な根拠はなかった。明治憲法では、天皇は現人神(あらひとがみ)として国家を統治していた(天皇主権)が、日本国憲法にかわって、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と位置づけられ、日本は国民主権国家となった(日本国憲法1条)。そこで、「君が代」の歌詞の内容が、国民主権に適合するか否かが問われることになった。
政府は一貫して、日本国の象徴でありかつ日本国民統合の象徴として天皇をいただき、日本と日本国民の繁栄をねがった歌として「君が代」は憲法に矛盾するものではないとしてきた。文部省は、1958年(昭和33)版学習指導要領から「君が代」の斉唱を指導するよう要請し、77年の学習指導要領改訂の中で「君が代」を国歌と明記した。行政立法ではあるが、これによって法的な根拠をはじめてもつことになった。しかし、文部省、教育委員会、校長と日教組を中心とする教職員との軋轢は、はげしいものとなっていった。一方、世論における定着率は7割前後の高さを保持した。
そのようななか、1999年(平成11)2月に、卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱をめぐって教職員と対立していた公立高校校長が自殺をした。これを機に、にわかに、国旗ならびに国歌の法律制定が政治課題としてとりあげられ、さまざまな意見や反論があったが、自自公連立政権の多数によって、異例の早さで法制化された。
3 斉唱をめぐる問題点 その後の問題は、国家や自治体の権力をもった立場の人々が、公式行事において、国歌をうたわない人を問題視する事態が生じていることである。ここでは、国歌の対外的な機能が問題なのではなく、対内的な機能が問題となる。国民がみずからすすんで国歌「君が代」をうたうことは積極的な機能のあらわれであり評価されるが、うたいたくない国民に強制的にうたわせたり、うたわないことを不利益処分の理由にするために国歌が利用されることは、憲法19条や14条の保障する「思想良心の自由」「平等権」という人権を侵害する。
そのうえ、実際上は、権力者に忠誠をつくすか否かの「踏み絵」になってしまう恐れはじゅうぶんにあり、多様性をみとめ、寛容を必要とする国際的感覚を身につけるべき教育が、逆に、国民を二分して軋轢と差別を生み、多数者の横暴と少数者のエゴという対処しえない対立を生みだす危険が指摘されている。
1880年(明治13)の天長節(明治天皇の誕生日にあたる)に初演奏。
IV 日本の国歌「君が代」 1999年(平成11)8月13日に、「国旗及び国歌に関する法律」が公布され、同日に施行された。これにより、法律レベルで国歌が「君が代」であることが明定された(同法2条、別記第二)。
1 「君が代」の歴史 「君が代」は、古今和歌集の「題しらず読人しらず」の賀歌「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔(こけ)のむすまで」に、その淵源がもとめられるとされる。「わが君」の使われ方は、天皇に対してだけでなく、身分の高い人ならびに年長者にもちいられていた。その後、この歌が知られるとともに、わが君が「君が代」とされて広まった。
日本も、明治になると、近代国家としての体をなす必要にせまられた。国歌については、1869年(明治2)に、イギリス公使館護衛歩兵隊軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンから、国歌に関する問い合わせがあり、それに大山巌が古歌の「君が代」をしめしたことにはじまるとされる。海軍軍楽隊雇教師(→ お雇い外国人)となったフェントンがそれに作曲をしたが、のちに海軍省から楽譜を雅楽の音節へ改訂するよう建議がなされた。
フェントンの後任として海軍省雇音楽教師となったドイツ人フランツ・エッケルトは、宮内省雅楽部とともにその選定にかかわり、編曲をおこなった。そして、「国歌」として1880年11月3日に天皇の前で奏楽されたといわれる。それに対して、文部省ではことなった動きがみられたが、結局は、小学校において祝日大祭日の儀式における唱歌として「君が代」が告示された。このようにして、明治20年代中ごろから「君が代」が海軍、宮内省、文部省などの活動を通じて「国歌」となったといえよう。
2 法定化への経過 明治憲法下で、「君が代」は事実上国歌としてとりあつかわれていたが、法的な根拠はなかった。明治憲法では、天皇は現人神(あらひとがみ)として国家を統治していた(天皇主権)が、日本国憲法にかわって、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と位置づけられ、日本は国民主権国家となった(日本国憲法1条)。そこで、「君が代」の歌詞の内容が、国民主権に適合するか否かが問われることになった。
政府は一貫して、日本国の象徴でありかつ日本国民統合の象徴として天皇をいただき、日本と日本国民の繁栄をねがった歌として「君が代」は憲法に矛盾するものではないとしてきた。文部省は、1958年(昭和33)版学習指導要領から「君が代」の斉唱を指導するよう要請し、77年の学習指導要領改訂の中で「君が代」を国歌と明記した。行政立法ではあるが、これによって法的な根拠をはじめてもつことになった。しかし、文部省、教育委員会、校長と日教組を中心とする教職員との軋轢は、はげしいものとなっていった。一方、世論における定着率は7割前後の高さを保持した。
そのようななか、1999年(平成11)2月に、卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱をめぐって教職員と対立していた公立高校校長が自殺をした。これを機に、にわかに、国旗ならびに国歌の法律制定が政治課題としてとりあげられ、さまざまな意見や反論があったが、自自公連立政権の多数によって、異例の早さで法制化された。
3 斉唱をめぐる問題点 その後の問題は、国家や自治体の権力をもった立場の人々が、公式行事において、国歌をうたわない人を問題視する事態が生じていることである。ここでは、国歌の対外的な機能が問題なのではなく、対内的な機能が問題となる。国民がみずからすすんで国歌「君が代」をうたうことは積極的な機能のあらわれであり評価されるが、うたいたくない国民に強制的にうたわせたり、うたわないことを不利益処分の理由にするために国歌が利用されることは、憲法19条や14条の保障する「思想良心の自由」「平等権」という人権を侵害する。
そのうえ、実際上は、権力者に忠誠をつくすか否かの「踏み絵」になってしまう恐れはじゅうぶんにあり、多様性をみとめ、寛容を必要とする国際的感覚を身につけるべき教育が、逆に、国民を二分して軋轢と差別を生み、多数者の横暴と少数者のエゴという対処しえない対立を生みだす危険が指摘されている。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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