北朝鮮の歴史1
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/27 20:47 投稿番号: [60993 / 99628]
VII 歴史
南北分断以前の朝鮮半島の歴史については、朝鮮の項目を参照。
朝鮮民主主義人民共和国は、1948年9月9日に、ピョンヤン(平壌)で建国を宣言した。その中心となった共産主義政党である朝鮮労働党は、46年8月28日に金\xF0\x9A奉(キム・トゥボン)と金日成(キム・イルソン)の指導のもとに結成された。
1 金日成の権力掌握
朝鮮労働党の設立後、金日成は当時(1948年まで)北朝鮮を占領していたソ連軍の支援をうけ、北緯38度線以北の状況に指導力を発揮するようになった。共和国の建国以前にも、朝鮮労働党のもとで政治的および経済的改革が断行され、中道と右派の排除、宗教諸派の弾圧、日本人や反体制派に対する資産の没収、計画経済や開発政策の導入などがはじまっていた。
金日成は初期から指導者として君臨していたが、当時は権力闘争をいどむ者もあった。そのひとり、南朝鮮からやってきた共産主義者朴憲永(パク・ホンヨン)は、朝鮮戦争(1950〜53)後に粛清された。朴は、南朝鮮の民衆は北側の侵攻を支持するはずだと主張していたため、戦争敗北の責任を問われたともいわれている。金\xF0\x9A奉ら、潜在的に金日成の地位をおびやかしそうな有力者は、1950年代の終わりまでに、すっかり排除され、金日成はゆるぎない権力を確立した。
2 朝鮮戦争後 戦争の被害は大きかったが、朝鮮労働党の強力な引き締めと労働政策によって、1960年ごろには復興と開発がかなりすすんだ。同時に、北朝鮮の指導部はソ連の影響からしだいにはなれ、朝鮮革命の独自性を主張しはじめた。60年代に中ソ論争が激化すると、北朝鮮は戦略的にいっそう独自路線をうちだすようになっていった。60年代には、重工業の成長がさけばれ、消費財の生産は軽視され、平均的な生活水準は停滞していた。
1960年代後半に、北朝鮮は南側に対してきわめて攻撃的な姿勢をとった。当時の韓国大統領朴正煕(パク・チョンヒ)は、北朝鮮のおくりこんだ特殊工作部隊に暗殺されかけた。68年には、ウォンサン(元山)沖で活動していたアメリカの情報収集艦プエブロが拿捕(だほ)されるという事件がおこり、極東に緊張が広がるとともに、アメリカは国際世論の批判にさらされた。その後も、特殊工作部隊が北から南へおくりこまれたり、南から北へとんだアメリカの偵察機が撃墜されるといった事件がときおり発生した。一連の北側の軍事的な動きは、南側の弱体化にはつながらず、むしろ国防体制の刷新というかたちで、朴正煕政権の支配体制を強化することになった。→ 大韓民国
1970年代になると、南北の秘密交渉がすすみ、72年7月4日には、統一にむけた対話をすすめるための南北共同声明が発表されたが、73年春には対話は中断されるにいたった。80年代にも、統一にむけた対話は断続的につづけられた。
1980年の朝鮮労働党大会で、金日成の長男金正日(キム・ジョンイル)が政治局と党中央委員会の要職につき、やがては父の後継者となることがしめされた。86年には、朝鮮戦争によって南北にひきはなされた離散家族に、相互訪問がみとめられた。金日成は90年5月の選挙で主席に再選され、さらに4年の任期をつとめることになった。91年9月には南北両国が同時に国連に加盟し、92年2月には「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」と「南北間の和解と不可侵及び交流と協力に関する合意書」が調印された。
南北分断以前の朝鮮半島の歴史については、朝鮮の項目を参照。
朝鮮民主主義人民共和国は、1948年9月9日に、ピョンヤン(平壌)で建国を宣言した。その中心となった共産主義政党である朝鮮労働党は、46年8月28日に金\xF0\x9A奉(キム・トゥボン)と金日成(キム・イルソン)の指導のもとに結成された。
1 金日成の権力掌握
朝鮮労働党の設立後、金日成は当時(1948年まで)北朝鮮を占領していたソ連軍の支援をうけ、北緯38度線以北の状況に指導力を発揮するようになった。共和国の建国以前にも、朝鮮労働党のもとで政治的および経済的改革が断行され、中道と右派の排除、宗教諸派の弾圧、日本人や反体制派に対する資産の没収、計画経済や開発政策の導入などがはじまっていた。
金日成は初期から指導者として君臨していたが、当時は権力闘争をいどむ者もあった。そのひとり、南朝鮮からやってきた共産主義者朴憲永(パク・ホンヨン)は、朝鮮戦争(1950〜53)後に粛清された。朴は、南朝鮮の民衆は北側の侵攻を支持するはずだと主張していたため、戦争敗北の責任を問われたともいわれている。金\xF0\x9A奉ら、潜在的に金日成の地位をおびやかしそうな有力者は、1950年代の終わりまでに、すっかり排除され、金日成はゆるぎない権力を確立した。
2 朝鮮戦争後 戦争の被害は大きかったが、朝鮮労働党の強力な引き締めと労働政策によって、1960年ごろには復興と開発がかなりすすんだ。同時に、北朝鮮の指導部はソ連の影響からしだいにはなれ、朝鮮革命の独自性を主張しはじめた。60年代に中ソ論争が激化すると、北朝鮮は戦略的にいっそう独自路線をうちだすようになっていった。60年代には、重工業の成長がさけばれ、消費財の生産は軽視され、平均的な生活水準は停滞していた。
1960年代後半に、北朝鮮は南側に対してきわめて攻撃的な姿勢をとった。当時の韓国大統領朴正煕(パク・チョンヒ)は、北朝鮮のおくりこんだ特殊工作部隊に暗殺されかけた。68年には、ウォンサン(元山)沖で活動していたアメリカの情報収集艦プエブロが拿捕(だほ)されるという事件がおこり、極東に緊張が広がるとともに、アメリカは国際世論の批判にさらされた。その後も、特殊工作部隊が北から南へおくりこまれたり、南から北へとんだアメリカの偵察機が撃墜されるといった事件がときおり発生した。一連の北側の軍事的な動きは、南側の弱体化にはつながらず、むしろ国防体制の刷新というかたちで、朴正煕政権の支配体制を強化することになった。→ 大韓民国
1970年代になると、南北の秘密交渉がすすみ、72年7月4日には、統一にむけた対話をすすめるための南北共同声明が発表されたが、73年春には対話は中断されるにいたった。80年代にも、統一にむけた対話は断続的につづけられた。
1980年の朝鮮労働党大会で、金日成の長男金正日(キム・ジョンイル)が政治局と党中央委員会の要職につき、やがては父の後継者となることがしめされた。86年には、朝鮮戦争によって南北にひきはなされた離散家族に、相互訪問がみとめられた。金日成は90年5月の選挙で主席に再選され、さらに4年の任期をつとめることになった。91年9月には南北両国が同時に国連に加盟し、92年2月には「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」と「南北間の和解と不可侵及び交流と協力に関する合意書」が調印された。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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