近・現代のユダヤ人
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/27 17:57 投稿番号: [60941 / 99628]
VI 近・現代のユダヤ人 16世紀末には、西ヨーロッパにのこっているのは、古いユダヤ人共同体の末裔(まつえい)だけだった。
1 宗教改革とフランス革命 しかし、プロテスタント宗教改革につづく政治的・社会的自由の漸進的拡大は、西ヨーロッパにユダヤ人に対する寛容をふたたび確立させた。新しい自由が最初にもたらされたのは、イングランドにおいてだった。軍事的・政治的指導者クロムウェルの指導する共和制のもとでは、ユダヤ人の移民が歓迎された。また、哲学者ロックや、アメリカにわたった宣教師ロジャー・ウィリアムスなどによって、アメリカのイギリス植民地へのユダヤ人の移民も奨励された。
フランスでは、フランス革命(1789〜99)の平等精神にならって、1791年の国民議会がユダヤ人に公民権をあたえた。また、ナポレオン1世は、ヨーロッパを貫通する遠征の途上で、進軍路上にあるゲットーの扉を次々とひらき、ユダヤ人を解放した。
しかし、1815年のウィーン会議以降、ユダヤ人への抑圧が再開された。一時はナポレオンに屈伏した国々が、ナポレオンの政策の受け入れを拒否したのである。そこには、ユダヤ人解放政策もふくまれていた。それらの国々の目には、解放政策がリベラリズム(自由主義)に偏向したものとうつったのである。ただし、この反動は数十年間しかつづかなかった。60年代には、西ヨーロッパではユダヤ人の解放がほとんど常態となった。
2 東ヨーロッパでの迫害 これに反し、東ヨーロッパでは、以前のユダヤ人に対する寛容政策が逆転した。ポーランドとロシアは、自由主義的傾向をすべて払拭するために、公然たる迫害政策をはじめたのである。この迫害は、中世のユダヤ人弾圧に匹敵するほどのものだった。1772年、93年、95年の「ポーランド分割」によってポーランド東部がロシア帝国に併合されて以降はとくにそうだった。
新たにロシアの領土にくわえられた部分は、ポーランドのユダヤ人居住地のほとんどをふくんでおり、ユダヤ人にはきびしい制限が課された。ユダヤ人はさだめられた地域以外にすむことを禁止され、教育や就職の機会も限定された。またロシア帝国政府は、定期的におこなわれる「ポグロム」とよばれるユダヤ人虐殺を支援し、それに財政援助さえおこなった。これは、19世紀後半になってもまだ支配的だった封建的体制に対するロシア民衆の不満のはけ口にするためだった。
さらにロシア帝国政府は、ロシアのユダヤ人を孤立させ、彼らからのいかなる影響も遮断するために、過酷な反ユダヤ的政策を実行した。ユダヤ人が、西ヨーロッパの思想や知識をロシアにもちこむことが多かったからである。このきびしい迫害は、1917年のロシア革命によって、ツァーリ(ロシア皇帝)体制が打倒されるまでつづいた。
ポグロムの結果として、1890年から第1次世界大戦(1914〜18)の終了までに約200万人のユダヤ人が、ロシアの影響下にある諸地域からアメリカ合衆国に移住した。それ以外にも、カナダ、南アメリカ(とくにアルゼンチン)、南アフリカ、パレスティナに東ヨーロッパからのユダヤ人移民の居住区がつくられた。
1 宗教改革とフランス革命 しかし、プロテスタント宗教改革につづく政治的・社会的自由の漸進的拡大は、西ヨーロッパにユダヤ人に対する寛容をふたたび確立させた。新しい自由が最初にもたらされたのは、イングランドにおいてだった。軍事的・政治的指導者クロムウェルの指導する共和制のもとでは、ユダヤ人の移民が歓迎された。また、哲学者ロックや、アメリカにわたった宣教師ロジャー・ウィリアムスなどによって、アメリカのイギリス植民地へのユダヤ人の移民も奨励された。
フランスでは、フランス革命(1789〜99)の平等精神にならって、1791年の国民議会がユダヤ人に公民権をあたえた。また、ナポレオン1世は、ヨーロッパを貫通する遠征の途上で、進軍路上にあるゲットーの扉を次々とひらき、ユダヤ人を解放した。
しかし、1815年のウィーン会議以降、ユダヤ人への抑圧が再開された。一時はナポレオンに屈伏した国々が、ナポレオンの政策の受け入れを拒否したのである。そこには、ユダヤ人解放政策もふくまれていた。それらの国々の目には、解放政策がリベラリズム(自由主義)に偏向したものとうつったのである。ただし、この反動は数十年間しかつづかなかった。60年代には、西ヨーロッパではユダヤ人の解放がほとんど常態となった。
2 東ヨーロッパでの迫害 これに反し、東ヨーロッパでは、以前のユダヤ人に対する寛容政策が逆転した。ポーランドとロシアは、自由主義的傾向をすべて払拭するために、公然たる迫害政策をはじめたのである。この迫害は、中世のユダヤ人弾圧に匹敵するほどのものだった。1772年、93年、95年の「ポーランド分割」によってポーランド東部がロシア帝国に併合されて以降はとくにそうだった。
新たにロシアの領土にくわえられた部分は、ポーランドのユダヤ人居住地のほとんどをふくんでおり、ユダヤ人にはきびしい制限が課された。ユダヤ人はさだめられた地域以外にすむことを禁止され、教育や就職の機会も限定された。またロシア帝国政府は、定期的におこなわれる「ポグロム」とよばれるユダヤ人虐殺を支援し、それに財政援助さえおこなった。これは、19世紀後半になってもまだ支配的だった封建的体制に対するロシア民衆の不満のはけ口にするためだった。
さらにロシア帝国政府は、ロシアのユダヤ人を孤立させ、彼らからのいかなる影響も遮断するために、過酷な反ユダヤ的政策を実行した。ユダヤ人が、西ヨーロッパの思想や知識をロシアにもちこむことが多かったからである。このきびしい迫害は、1917年のロシア革命によって、ツァーリ(ロシア皇帝)体制が打倒されるまでつづいた。
ポグロムの結果として、1890年から第1次世界大戦(1914〜18)の終了までに約200万人のユダヤ人が、ロシアの影響下にある諸地域からアメリカ合衆国に移住した。それ以外にも、カナダ、南アメリカ(とくにアルゼンチン)、南アフリカ、パレスティナに東ヨーロッパからのユダヤ人移民の居住区がつくられた。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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