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新羅

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 18:42 投稿番号: [59517 / 99628]
I プロローグ 新羅   しらぎ   356〜935年にさかえた古代朝鮮の王朝。日本では「しらぎ」とよびならわしてきたが、「しんら」「しら」ともよむ。はじめ朝鮮半島東南部を支配していたが、7世紀に朝鮮半島のほぼ全域をはじめて統一した。韓国では、北の渤海国とあわせて、この時代を南北国時代という。

II 新羅の興亡
新羅の始祖は、建国神話では前57年に王位についたとされるが、中国の文献では前身は三韓のひとつ辰韓の斯盧(しろ)国とされ、356年の第17代奈勿(なもつ)王の即位により、王位を金氏が占めるようになったころから、新羅になったとされる。その背景には、4世紀初めに中国が朝鮮半島西北部においていた楽浪・帯方両郡がほろび、三韓地域でそれぞれ独立した国づくりがはじまったことがあった。

新羅が国の基礎をかためたのは第23代法興王(在位514〜540)、第24代真興王(在位540〜576)のときで、高句麗をせめて北方に領土を広げ、さらに百済・倭連合軍をもしりぞけて562年には加羅を併合した。

高句麗、百済、新羅3国の抗争が激化する中、新羅は巧みな外交によって唐とむすび、その連合軍は660年に百済を、668年には高句麗をほろぼした。その後、唐が旧百済を中心に朝鮮半島支配をめざしたため、対唐戦争となったが、676年に唐軍をおいだし、朝鮮半島ほぼ全域の統一をなしとげた。

統一国家となった新羅は最盛期をむかえ、唐にならって郡県制をしくなど、中央集権国家としての体裁をととのえていった。対外的にもほぼ1世紀にわたって平和な時期がつづき、日本との交流も貿易を中心に盛んにおこなわれた。新羅の律令制は8世紀ごろにもっとも整備されたが、村落共同体を基盤とする貴族や豪族の力は依然として強く、絶対的王権は確立できなかった。

そのため、中央集権的な律令体制をおす勢力と地方分権的な豪族体制を支持する勢力との対立や、豪族相互の対立が、8世紀後半以降激しさをましていった。また、肥大化する官僚層や華美な貴族生活をささえるための租税の徴収にくるしむ農民が地方で反乱をおこすようになっていった。群雄割拠の争いがつづく中、9世紀末には豪族たちが後百済国、後高句麗国をたてて後三国の動乱とよばれる状態となった。その中で後高句麗の武将だった王建が国王をたおしてたてた高麗国が勢力をのばし、935年に新羅の敬順王が帰順、ついに新羅はほろびた。

III 遺跡
慶州に都した新羅は多くの円墳群をつくった。金冠塚、金鈴塚、剣塚、銀鈴塚などはその出土品から命名された古墳で、また天馬塚は1973年の発掘で出土した障泥(あおり)に「天馬図」がえがかれていたことから命名され、直径47m、高さ13mの円墳から1万2000点をこえる遺物が出土したことでも著名となった。新羅の古墳からはスキタイ文化や馬具・騎馬像など騎馬民族文化との関係を推測させる遺物が多い点が注目されている。

また、慶州瑞鳳塚出土のガラス碗が奈良県新沢千塚出土の遺物と、池山洞32号古墳出土の金銅冠が福井県二本松山古墳出土の遺物とよく似ていることから、日本との密接な関係が指摘されている。

さらに、仏教関係の遺物や遺構も多く検出されており、飛鳥時代の作とされる京都広隆寺の有名な木造弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)が、弥勒信仰があった新羅の金銅仏像をモデルにしたことは明らかであり、6世紀代に日本に伝来する仏像がかなりはやい段階で半島各地に浸透していたことをしめしている。
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