百済
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 16:51 投稿番号: [59495 / 99628]
I プロローグ
百済 くだら 4世紀前半〜660年に朝鮮半島西南部でさかえた古代王朝。日本では古来「大村」という意味の古朝鮮語を訓読みして「くだら」とよびならわしている。音読みして「ひゃくさい」ともよむ。前身は三韓のひとつだった馬韓(ばかん)といわれる。三韓は中国が朝鮮半島においた楽浪郡や帯方郡に統制されていたが、313年に2郡がほろびると統一の気運が高まり、馬韓の地には伯済(はくさい)国を中心に小国が連合して百済がたてられた。百済ははやくから中国文化の影響をうけ、4世紀半ばには漢字や仏教が伝来していた。
百済は建国当初から北方の高句麗の軍事的圧力をうけて北への進出ができず、逆に高句麗の広開土王や長寿王の南下攻撃をうけ、倭国(日本)と同盟をむすび、半島東部の新羅との交流もはじめた。しかし、475年に王都漢山城が高句麗に攻略され、蓋鹵(がいろ)王が殺害されると、子の文周王は南へのがれて熊津(ゆうしん)を新しい都とし、以後、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の3国がならびたつ三国時代へとはいってゆく。
朝鮮の資料によれば、百済が大和朝廷と交流をはじめたのは6世紀にはいってからとされているが、その意図は半島南部の加羅の支配権をめぐって対立していた新羅に対抗するためだった。513年には五経博士を日本へ派遣、538年には仏像・経論をつたえた。日本はこの百済の積極外交によって仏教や儒教にしたしく接するようになった。
加羅の支配権は、6世紀後半に新羅がうばったが、7世紀にはいると、唐が本格的に朝鮮支配にのりだした。唐がまず高句麗を攻めたことを契機に3国間の戦いは激しさをましたが、660年、唐は方針を転換、新羅と同盟して百済に攻めいったため、百済は滅亡した。こののち百済の遺臣が復興を画策し、大和朝廷も援軍をおくったが、663年の白村江の戦にやぶれ、やがて朝鮮半島は新羅の支配するところとなった。
II 遺跡
漢江流域にさかえた百済は、金銅製装飾品を大量に副葬する古墳を数多く造営した。1971年に偶然発見された武寧王陵からは、金製の装飾品、銅鏡、太刀などの豪華絢爛(けんらん)たる副葬品が出土し、また同古墳の内部をかざる文様磚(せん)のすばらしさは特筆すべきものであった。最後の都となった扶余近辺では定林寺跡はじめ多数の寺院跡、青山城跡はじめ大規模な城塞(じょうさい)、王家の庭園だった宮南池など隆盛期をしのばせる遺構が多数発見されている。
百済 くだら 4世紀前半〜660年に朝鮮半島西南部でさかえた古代王朝。日本では古来「大村」という意味の古朝鮮語を訓読みして「くだら」とよびならわしている。音読みして「ひゃくさい」ともよむ。前身は三韓のひとつだった馬韓(ばかん)といわれる。三韓は中国が朝鮮半島においた楽浪郡や帯方郡に統制されていたが、313年に2郡がほろびると統一の気運が高まり、馬韓の地には伯済(はくさい)国を中心に小国が連合して百済がたてられた。百済ははやくから中国文化の影響をうけ、4世紀半ばには漢字や仏教が伝来していた。
百済は建国当初から北方の高句麗の軍事的圧力をうけて北への進出ができず、逆に高句麗の広開土王や長寿王の南下攻撃をうけ、倭国(日本)と同盟をむすび、半島東部の新羅との交流もはじめた。しかし、475年に王都漢山城が高句麗に攻略され、蓋鹵(がいろ)王が殺害されると、子の文周王は南へのがれて熊津(ゆうしん)を新しい都とし、以後、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の3国がならびたつ三国時代へとはいってゆく。
朝鮮の資料によれば、百済が大和朝廷と交流をはじめたのは6世紀にはいってからとされているが、その意図は半島南部の加羅の支配権をめぐって対立していた新羅に対抗するためだった。513年には五経博士を日本へ派遣、538年には仏像・経論をつたえた。日本はこの百済の積極外交によって仏教や儒教にしたしく接するようになった。
加羅の支配権は、6世紀後半に新羅がうばったが、7世紀にはいると、唐が本格的に朝鮮支配にのりだした。唐がまず高句麗を攻めたことを契機に3国間の戦いは激しさをましたが、660年、唐は方針を転換、新羅と同盟して百済に攻めいったため、百済は滅亡した。こののち百済の遺臣が復興を画策し、大和朝廷も援軍をおくったが、663年の白村江の戦にやぶれ、やがて朝鮮半島は新羅の支配するところとなった。
II 遺跡
漢江流域にさかえた百済は、金銅製装飾品を大量に副葬する古墳を数多く造営した。1971年に偶然発見された武寧王陵からは、金製の装飾品、銅鏡、太刀などの豪華絢爛(けんらん)たる副葬品が出土し、また同古墳の内部をかざる文様磚(せん)のすばらしさは特筆すべきものであった。最後の都となった扶余近辺では定林寺跡はじめ多数の寺院跡、青山城跡はじめ大規模な城塞(じょうさい)、王家の庭園だった宮南池など隆盛期をしのばせる遺構が多数発見されている。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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