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天皇陵

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/24 03:28 投稿番号: [59281 / 99628]
I プロローグ 天皇陵   てんのうりょう   宮内庁法によってさだめられた124代の昭和天皇まですべての天皇と、皇后・後宮・皇子・皇女などの皇族がほうむられているとされる墳墓。また、被葬者は確定していないが陵墓参考地とよばれる皇族関係者の墓が50カ所ほどある。その形は8世紀以前のものは巨大古墳をふくめて、前方後円墳・円墳・方墳などの高塚が多く、江戸中期以降は石塔、明治期以降は円丘・上円下方丘などに主流がうつった。

II 天皇陵の矛盾
初代とされる神武天皇陵は奈良県橿原(かしはら)市のミサンザイ古墳とされているが、「日本書紀」などに陵についての記載があるもののその後わすれられ、江戸末期にようやくミサンザイ古墳にさだめられた。8代とされる孝元天皇陵も橿原市の中山塚古墳といわれているが、江戸時代の絵図をみると明らかに時代のくだる古墳時代中〜後期の横穴式石室が数基ある。奈良市西北部にある11代とされる垂仁天皇陵は大型前方後円墳で周濠の一部が大きく拡張、その中の島は垂仁天皇の忠臣だった田島間守(たじまもり)の墓といわれているが、1879年(明治12)以前の絵図にこれはみえないから、その後の外堤工事でできたものなのだろう。

26代とされる継体天皇陵を宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)としているが、ここから出土した埴輪の年代は継体天皇の在位時期より古い。しかも、陵の記事がのる「延喜式」は継体天皇陵を島上郡とするのに、この古墳の場所は島下郡にあたる。考古学者間では島上郡の今城塚古墳(いましろづかこふん)をあてる説が有力である。→ 継体天皇陵

宮内庁のさだめる陵にこのような疑問がでるのは、「古事記」や「日本書紀」「延喜式」にのる陵の場所を、江戸後期の国学の隆盛におされた幕府が、政治的にきめたものが多いという背景がある。さらに、幕府は文久年間(1861〜64)にこうした作業とともに大規模な天皇陵改修工事をおこなった。大阪府羽曳野(はびきの)市の古市(ふるいち)古墳群中にある雄略天皇陵は、幕末期の改修で円墳と方墳が濠(ほり)をへだてて無理に前方後円墳に改造されている。現在でも主軸が大きくブレていることは有名。大阪府堺市にあって世界最大級の面積をもつ仁徳天皇陵(大山古墳)は、三重にめぐる濠が特徴的である。しかし、江戸時代の絵図などでは濠は二重で、現在でも後円部の三重目の濠は不自然な形で、陪塚(ばいづか)をとりこんでいることがわかる。三重目は、江戸時代の工事で新設されたものである。

III 考古調査ができない天皇陵
現在いわれる天皇陵のうち天皇名と天皇陵名が確実にあうのは天智天皇陵、天武・持統天皇合葬陵の2基ぐらいといわれる。そのうえ天皇陵・陵墓参考地は宮内庁が皇室の墓所として保管・管理しているため一般の立ち入りは禁止され、文化財指定もなされていない。そのため、発掘調査などで古墳の年代を分析することができない。最近は、天皇陵墓名をつかわず地名・字名のついた古墳名をつかうことが多い。たとえば、大山古墳(だいせんこふん)=伝仁徳天皇陵、誉田山古墳(こんだやまこふん)=伝応神天皇陵などである。

1991年(平成3)橿原市の見瀬丸山古墳の石室内写真が、たまたま一般市民に撮影され公開された。石室入り口がひらいていて、子供の遊び場になっていたのである。同古墳は明治初期まで天武・持統合葬陵とされていたが、同陵が明日香村でみつかったため陵墓参考地として後円部上部だけが宮内庁管理となっていた。写真には石室内に時期のことなる2つの石棺がうつっていたため、あらためて被葬者が問題となった。欽明天皇と妃の堅塩媛(きたしひめ)合葬陵とみる考古学者が多いが、このあとすぐに宮内庁は石室入り口をふさいでしまった。
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