続き: トルコ人さん?w
投稿者: askeri_inzibat_tr 投稿日時: 2007/01/19 08:21 投稿番号: [4083 / 4578]
書き違いごめん。どんなに注意しても書き違いが生じる>「回収→改宗」。
>人間悪いばかりとは考えにくい彼も良い面が功績であって悪い面が罪悪である。
理解しにくいことです。ヒトラーが間違ったという話をよく聞くけど。第一第二次戦争、インディアン人の滅亡、マヤ人等、奴隷扱い、長崎、広島、犯罪者等にはよい面はあるのか。自称イスラムと名乗ってイスラムの敵でありながら信者達を戦地に送ってコンスタンティノープルやアフリカ経由スペインまで戦争を売って失敗に終わった戦争で多くの信者を犠牲にしたあの馬鹿にはよい面がありえるのか。イスラムの歴史を詳しく読むとモハメッドが戦争の目的でアラビア半島を離れなかったことに気づくと思うよ。
↓↓ご参照まで↓↓
コンスタンティノス4世
661年に内戦が終結してウマイア朝が成立して以来、ムアーウィヤは小アジア半島や地中海、アフリカ・プロコンスラリスで帝国領への侵入を開始していた。小アジアでは既に662年から侵入が再開されており、669年には首都対岸のカルケドンまでイスラームの軍が進出した。イスラーム艦隊もエーゲ海を経てマルマラ海に進み、673年にはキュジコス半島を前線基地として確保した。以降674年から678年まで、イスラームの軍は海陸から(主に夏季に)コンスタンティノープルを包囲して、その攻略をめざした。しかしコンスタンティノープルを完全に包囲することが不可能だったこともあって、攻略は失敗に終わった。なおこの時に「ギリシアの火」が初めて実戦で利用されたようである。8世紀以降は東ローマ帝国軍の秘密兵器となるが、この戦いではウマイア朝の軍が最初にこの兵器を利用した可能性が最近指摘されている。
ムアーウィヤはその後も帝国征服の望みを捨てず、679年には再度軍を送ってロードス島を制圧した。しかしこのような長期間にわたる大作戦はウマイア朝にとっても大きな負担であった。680年にムアーウィヤが没すると、後継者のヤズィード1世は和約を結び、ロードス島からも撤退している。その後683年にヤズィード1世が没するとウマイア朝で内戦(第二次内戦)が勃発するため、イスラームとの戦いは沈静化した。アフリカではイスラームは670年にプロコンスラリスの内陸部にカイルアン(ケルアン)を建設して、カルタゴを狙った。しかし683年にイスラームの軍は原住民と東ローマの連合軍に惨敗し、カイルアンを放棄してキレナイカ地方まで撤退している。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1834682&tid=a5ha5ka53&sid=1834682&mid=4079
>人間悪いばかりとは考えにくい彼も良い面が功績であって悪い面が罪悪である。
理解しにくいことです。ヒトラーが間違ったという話をよく聞くけど。第一第二次戦争、インディアン人の滅亡、マヤ人等、奴隷扱い、長崎、広島、犯罪者等にはよい面はあるのか。自称イスラムと名乗ってイスラムの敵でありながら信者達を戦地に送ってコンスタンティノープルやアフリカ経由スペインまで戦争を売って失敗に終わった戦争で多くの信者を犠牲にしたあの馬鹿にはよい面がありえるのか。イスラムの歴史を詳しく読むとモハメッドが戦争の目的でアラビア半島を離れなかったことに気づくと思うよ。
↓↓ご参照まで↓↓
コンスタンティノス4世
661年に内戦が終結してウマイア朝が成立して以来、ムアーウィヤは小アジア半島や地中海、アフリカ・プロコンスラリスで帝国領への侵入を開始していた。小アジアでは既に662年から侵入が再開されており、669年には首都対岸のカルケドンまでイスラームの軍が進出した。イスラーム艦隊もエーゲ海を経てマルマラ海に進み、673年にはキュジコス半島を前線基地として確保した。以降674年から678年まで、イスラームの軍は海陸から(主に夏季に)コンスタンティノープルを包囲して、その攻略をめざした。しかしコンスタンティノープルを完全に包囲することが不可能だったこともあって、攻略は失敗に終わった。なおこの時に「ギリシアの火」が初めて実戦で利用されたようである。8世紀以降は東ローマ帝国軍の秘密兵器となるが、この戦いではウマイア朝の軍が最初にこの兵器を利用した可能性が最近指摘されている。
ムアーウィヤはその後も帝国征服の望みを捨てず、679年には再度軍を送ってロードス島を制圧した。しかしこのような長期間にわたる大作戦はウマイア朝にとっても大きな負担であった。680年にムアーウィヤが没すると、後継者のヤズィード1世は和約を結び、ロードス島からも撤退している。その後683年にヤズィード1世が没するとウマイア朝で内戦(第二次内戦)が勃発するため、イスラームとの戦いは沈静化した。アフリカではイスラームは670年にプロコンスラリスの内陸部にカイルアン(ケルアン)を建設して、カルタゴを狙った。しかし683年にイスラームの軍は原住民と東ローマの連合軍に惨敗し、カイルアンを放棄してキレナイカ地方まで撤退している。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1834682&tid=a5ha5ka53&sid=1834682&mid=4079
これは メッセージ 4082 (askeri_inzibat_tr さん)への返信です.
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