聖書学と信仰について
投稿者: secular2004jp 投稿日時: 2006/06/13 21:46 投稿番号: [3616 / 4578]
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5614/1145105633/
トルコ人さん参考にして下さい。
「信仰しているから正しい」+「正しいと言い続けるのが信仰」と言っていては、「バカボンのパパはパパだからパパなのだ」と言っているのとまるっきり変わりません。
また、それは聖書の絶対化であり、「聖書信仰」にほかなりません。
聖書には、あなたの期待に反して、矛盾や誤謬が含まれています。
それを正しく突かれたとき、「聖書にこう書かれているから正しいのだ」という理屈もどきは、あなたの信仰のきわめて脆い基盤にしかなりません。
脆いからこそ必死に守る気持ちはわからないでもないし、そういう方法で築く信仰も一概に否定するつもりはありませんが・・・
理解できないままで辻褄を合わせるために無理矢理ひねり出した理屈をいくらつなぎ合わせたところで、キリスト者でない人が客観的に見ればそれは、自由奔放無原則な「解釈」の積み上げでしかないんですよ。
聖書学は、「文献としての聖書」を客観的な研究(批評)対象として取扱い、聖書(あるいはキリスト教)の原点を探る学問です。
神の存在も不存在も、いずれも前提としません。
研究者自身の信仰の有無も種類も影響しません。それによって影響を受けてしまったら客観的な学問とは言えなくなります。
そこで得られる知識とは、簡単に言えば
「宗派を超え、現存の聖書の外にあるさまざまな証拠も踏まえて、客観的に研究検証されつつある聖書(とキリスト教)の原点に関する知識」
です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「独自で」などと矮小化されるべきものでもありません。
これは メッセージ 3615 (secular2004jp さん)への返信です.
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