Re: ムアーウィヤの評価
投稿者: aucuba_japonica 投稿日時: 2006/03/30 00:48 投稿番号: [3289 / 4578]
>今度スンニー派に会ったら聞いてみます。そんな人知らないといわれるかも。外国人は生活いそがしいし、日本人は高校世界史を忘れているかもしれない。
スンニー派のモスクの中の立て札を見てもいい。モハメッドとアリーの名前が書いてあるから。ムアーウィヤやその子孫の名前は人の名前としてさえ使われていない。
「ムアーウィヤ朝は世俗化し」
↑それを読んだときカラスたちも笑う。
トルコは世俗化された唯一のイスラム国です。
現在の政府はスンニー派(イスラムの過激派)が「世俗」という言葉を聴いたとき鳥肌が立つ。
トルコの法律はアタトゥルクの軍隊に守られてる。
政教分離に反対である現在の政府だが、法律を廃止できる力を持っていない。
ムアーウィヤ( Mu'a-wiya, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の五人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝三代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。
ムアーウィヤを輩出したウマイヤ家はクライシュ族の名門で、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンはマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマドに激しく敵対した人物である。ムハンマドがメッカを征服したのちに、イスラム教に改宗した。ムハンマドの死後、ムアーウィヤの兄ヤジードが初代カリフアブー・バクルによってシリアの征服を命じられ、ムアーウィヤはこれに従ってシリア駐留のビザンツ軍との戦争に従事した。640年に兄が死ぬと、ムアーウィヤは二代カリフウマルによりシリア州の総督(アミール)に任ぜられ、シリアの部族を掌握してビザンツ軍との戦いを進め、キプロス島とロードス島を征服してシリアに確固たる勢力を築いた。
656年、第3代カリフウスマーンが暗殺されて第4代カリフにアリーが就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。アリーと戦って次第に勢力を拡大し、660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことにより、単独のカリフとなった。ムアーウィヤは、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。
1680年、息子でムアーウィヤ朝後継者のヤズィードによって、後のアリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺した、カルバラーの悲劇が起こる。これによって、ムアーウィヤのスンニー派がイスラムの覇権を築いた。ムアーウィヤ朝は世俗化し、アラブ帝国、イスラム帝国へと発展していく。後のシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A4
スンニー派のモスクの中の立て札を見てもいい。モハメッドとアリーの名前が書いてあるから。ムアーウィヤやその子孫の名前は人の名前としてさえ使われていない。
「ムアーウィヤ朝は世俗化し」
↑それを読んだときカラスたちも笑う。
トルコは世俗化された唯一のイスラム国です。
現在の政府はスンニー派(イスラムの過激派)が「世俗」という言葉を聴いたとき鳥肌が立つ。
トルコの法律はアタトゥルクの軍隊に守られてる。
政教分離に反対である現在の政府だが、法律を廃止できる力を持っていない。
ムアーウィヤ( Mu'a-wiya, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の五人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝三代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。
ムアーウィヤを輩出したウマイヤ家はクライシュ族の名門で、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンはマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマドに激しく敵対した人物である。ムハンマドがメッカを征服したのちに、イスラム教に改宗した。ムハンマドの死後、ムアーウィヤの兄ヤジードが初代カリフアブー・バクルによってシリアの征服を命じられ、ムアーウィヤはこれに従ってシリア駐留のビザンツ軍との戦争に従事した。640年に兄が死ぬと、ムアーウィヤは二代カリフウマルによりシリア州の総督(アミール)に任ぜられ、シリアの部族を掌握してビザンツ軍との戦いを進め、キプロス島とロードス島を征服してシリアに確固たる勢力を築いた。
656年、第3代カリフウスマーンが暗殺されて第4代カリフにアリーが就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。アリーと戦って次第に勢力を拡大し、660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことにより、単独のカリフとなった。ムアーウィヤは、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。
1680年、息子でムアーウィヤ朝後継者のヤズィードによって、後のアリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺した、カルバラーの悲劇が起こる。これによって、ムアーウィヤのスンニー派がイスラムの覇権を築いた。ムアーウィヤ朝は世俗化し、アラブ帝国、イスラム帝国へと発展していく。後のシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A4
これは メッセージ 3261 (secular2004jp さん)への返信です.
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